「暴力的な出来事を語ることは可能か」という書き出しで始まる本書の問題意識は、ホロコーストのような出来事と、その出来事を語ること、の格差をどう埋めるのか、ということで一貫している。ホロコーストを伝承する試みに失敗している「シンドラーのリスト」などを批判しつつ、著者は、悲惨な出来事を「是非とも語らなければならない」と言う。そういう語りの可能性としてナショナルな視点などのあらゆる立場を相対化することー著者の言葉では「難民になること」ーが必要ではないか、と結語する。僕が言うと陳腐になる著者の主張も、本書では輝きと深みをもって語られる。本書が良書である理由は、政治的な主張というよりは、著者の文学作品並の的確な言葉使いと、問題意識に対する深い苦悩が現れているところーそれゆえ読者の価値判断を再考させるーだと思う。著者の言葉は、僕の頭のなかにこれかも残存してゆくだろう。
小説や映画や、自己の体験を語る人々の言説を取り上げ、分析する事によって、「語り得るもの」と「語り得ないもの」に関しての考察をしている著作。<BR>まるで視姦をするかのような手並みの思弁的分析が延々と続くが、これといったオチがつくわけではない。またそういったものを期待するのもお門違いというものだろう。読者は、著者の論理の筋道を準えながら、ものを考えるための叩き台としてこの本を捉えるのが正解、なのかもしれない。
タイトルにひかれ、かつレビユーを読んで読んでみたくなって購入した。<BR>著者はアラブ文学・第3世界フェミニズムを専攻している大学教員である。これは「思考のフロンテイア」シリーズではあるが、難しい読み物ではなく、著者の経験を中心としたエッセイ的なもので決して理屈っぽくない。むしろもう少し理論だっていないとわかりにくいといえる。<P>また文学と政治を入り混ぜたー文学は背景として書かれた当時の政治の影響と受けていることは否定しないがー、未完成な著者の叫びのようでもあり、その若き挑戦には賛辞を送りたいが、もう少し整理されているほうが読者にとっては有り難いのではないだろうか。<P>これを読んで新鮮な感動を受ける人もいるであろうことは否定しないが、物足りなさを感じるとい!!のが一言での私の評価である。