この本を読んだきっかけは、スティーブン・バーコフの舞台を見た事なのですが、本で読んでもまたすごいな、という感じです。文字を追っていくごとに、ビアズレーの描いた挿し絵の世界に入り込んでしまったような錯覚を感じます。まるでサロメのように、私もヨカナーンの声が聞きたい、顔を見たい、その肌に触れてみたい、と思うのです。どの位美しいのか、どの位冷たいのか、そしてその唇はどんなに紅いのか...。<BR>そのくらい、ビアズレーの絵の魔力は強烈です。<BR>私にとってはワイルドよりも、「サロメ=ビアズレー」なのです。絶対にこの挿し絵がなかったらこんなに印象深いものにはならなかったと思います。
サロメの物語は新約聖書マタイ伝およびマルコ伝が背景になっているという。<BR>残念ながら聖書に詳しくないので、この物語を純粋に戯曲として読み終えた。<BR>物語のうちに起きる予言、事件、駆け引き、予感、結末への<BR>この妙に短かすぎる、凝縮されたリズム、舞台の上にわきたつ『世界』の<BR>芯を歪め、歪曲した物語への大きな効果となっているように思う。<P>「サロメ」にまつわるイメージは、エロティックなもの、甘い誘惑、であったが、改めて読み直してみるとサロメが初めて恋をするのであり、初めて異性に欲望を持つのである。男を手に入れる、その方法は自分に対して向けたれていた欲望の目を利用する形で実現する。残酷だが無垢なひかりを放つキスシーンは純粋でうつくしすぎるものであり、劇的である。ラストの予感、無垢なサロメを永久のものにする。「サロメへのエロティシズムは読み手側の感覚を狂わせるワイルドの手法、描写力に拠るのではないかと思った。
之は新約聖書のたった、数行で片付いている事件だが、小説家のワイルドが最も華麗にして残酷な物語として戯曲化している。これは言わばエホバ神を信じるユダヤ教とイエスを信じるキリスト教との長い間の宿命的な憎しみ、怨念、といったものの戦いだと思う。それが数世紀経った今、正に「信教の違い」「思想の相違」或いは「聖地」を巡る土地争いなどと言ったものとして中東戦争、湾岸戦争が続いて来ている。。との見方はあながち、誤っているとは云えまい。その事をめぐらしながらこの「サロメ」を読むのも一興と言えよう。