いろんな本でデカルトの紹介を読んでいましたが、翻訳とはいえ原書を読むと考え方が更に良く分かります。特に感じたのは、その考え方の姿勢がシンプルな事。その考えぬいた末にたどり着いたシンプルな姿勢(哲学?)を自分のものにして、貫き通すことで偉大な足跡を残してきたという事実は、いろいろな事情を鑑みて動く事が多い我々には、そのような状態からは生まれて来るものがないということを強く感じさせます。考え抜くこと、いろんな事情にとらわれない考えに辿り着くこと、自分の考えとすること、実践すること、結果をだすこと。どれをとっても強い意志が必要ということを考えると、やっぱりこの哲学を知識のみではなく、実践していくのは非常に大変ですね。
哲学書を読むなんて大学の授業以来だったのですが、この本はかなり読みやすいと思いました。ま、読みやすいといっても普通の小説のように斜め読みでずんずん進むというわけにはいきませんでしたが、それでもじっくり読んでいればこんな素人の僕でもそれなりに理解はできます。本自体もとても短いので難しい本が苦手な人も入門編としてはいいかもしれません。それにしても20代にしてあの考えの基礎をつくるとは。いやはやとても真似できませんよ。
坪内、福田、小田島、松岡、河合など、連綿と続くシェイクスピアの名訳に比べて、哲学書には名訳が少なかった。長谷川訳ヘーゲルの登場などで事態は少し変わりつつあるが、デカルト『序説』の野田又夫訳もまた稀有の名訳である。そこに、歯切れの良い日本語で新たに谷川訳が加わった。谷川訳は、口語脈が加味されており、我々の日常の言葉遣いに近い。『序説』は、『省察』や『情念論』に比べて、一般読者を想定しているから、これは歓迎すべき事態である。が、問題がないわけではない。それは、我々自身にぴったりくる日本語自体が変化したために、日本語の「腰が弱くなった」という一面である。谷川訳は、「こんな」「たぶん」等の口語の他に、「ことだ」「ほどだ」「からだ」のように「・・だ」を多用する。しかし一定のまとまりの後には、当然、座りのよい「である」が来て、書き言葉と語り言葉が混在する。これは我々の感覚にぴったり来るだけ、その分「ねばり」が失われる。<P>有名なle grand livre du mondeの一節を比べよう。「こういうわけで私は、成年に達して自分の先生たちの手から解放されるやいなや、書物の学問をまったく捨てたのである。そして、私自身のうちに見いだされる学問、あるいはまた世間という大きな書物のうちに見いだされる学問のほかは、もはやいかなる学問も求めまいと決心して・・」(野田訳)。「以上の理由で、わたしは教師たちへの従属から解放されるとすぐに、文字による学問[人文学]を放棄してしまった。そしてこれからは、わたし自身のうちに、あるいは世界という大きな書物のうちに見つかるかもしれない学問だけを探究しようと決心し・・」(谷川訳)。谷川の「世界という大きな書物」という訳は素晴らしい。が、文の流麗さという点では野田訳か。