本書は、西田幾多郎の友人の僧・鈴木大拙が、1930年代半ばに英米で講演した内容を元にしている。1940年刊行、1964年改版を経て、2003年に第69刷となっている古典。本書によれば禅とは、一方に「般若(智恵)と大悲(愛・憐情)=体得・直覚・無心、経験重視(経験の絶対性)、森羅万象との同化(即自)・自然、敬(自己の無価値の自覚)・和、自由、複眼性・全体性・単純性(虚飾の剥奪)、迷わず行動すること(狂)、不完全の美・非均衡性、さび・妙・幽玄、言葉への不信=一即多・多即一=無意識、無執着、静居・清貧・孤高・侘び=根本・本質=精神・生の優位、形式無視、危機に強い」、他方に「知性=論理・体系化、経験の相対化・対自・人為・個人主義・対立、拘束、対称性、迷い・論理的袋小路=二分法!意識、執着、煩悩、分別=表層=技巧・形式重視、危機に弱い」という二分法(これ自体疑わしい分け方だが)を持ち、前者を重視し後者を軽視する思想である。もっとも、「一即多、多即一」という言葉から分るとおり、禅ではこうした二分法的説明自体を「論理に基づく迷妄」と見なすため、上記のようなことは自ら「体得」せねばならず、それができない者は、問答無用で師から叩かれる(師へは絶対服従)。本書ではこうした禅の思想が、日本の美術、武士道、剣道、儒教、茶道、俳句に与えた影響を論じている。しかし私見では、禅の考え方は自己の有限性を無媒介に自然の無限性と結び付けることによって、逆に有限な自己の感覚に無批判に安住する危険性があるように感じられる(論理的反省の軽視)。また、禅の思!想は実際には「何でもあり」に近く、具体的な指針を与えるものとは言いにくい。したがって、鍛錬すれば私的な精神の構えとしては役に立つかもしれないが、社会の分析には安易に適用できないことを強調しておきたい。
僕は日本文化論自体には興味がなかったが、鈴木が訴えたいのも「日本<BR>には禅の精神が宿っている」という自我自賛ではないのだと思う。日本<BR>文化を通して「禅」を知らしめること、これが鈴木の本心ではないだろう<BR>か。では「禅」とは何か。僕が感じ入ったのは、科学との対比で「禅」を<BR>論じている部分である。つまり、物事の仮称である言葉を重視する科学<P>とは反対に、物事の実態である経験を重視するのが禅である、と言う部分<BR>である。社会が複雑になればなるほど、経験を経ることなく軽口をたたく<BR>機会が増すが、そういう今だからこそ、経験を重視する「禅」から学ぶ<BR>べきことがあると思う。
現在、鈴木大拙は、学問的にはもうダメになってきている。しかし、なぜダメになってきたかというと、それは鈴木大拙の研究を参考に、他の人々が、研究を行ったからで、現在の禅研究にとって、鈴木大拙は、非常に重要な人物である。「禅と日本文化」について考えるにあたって、もっとも良い土台になる本であると思う。「必読」という言葉が似合う本だ。