レビューを書くにあたり自己紹介:<BR>・映画『めぐりあう時間たち』は意図的に「まだ」観ていません。<BR>・ヴァージニア・ウルフは恥ずかしながら名前を知っているという程度です。<P>さて本題です。私は、この1冊の文庫本に広がる幾人もの通り過ぎてきた「時間」と「場所」と「人との関わり・すれ違い」に、冒頭1ページから吸い込まれ一気に読んでしまいました。訳は昭和30年のものですが、本作品が1925年(昭和元年)に書かれたものですし、全く違和感を感じません。違和感どころか、素晴らしい翻訳だと思います。情景が鮮明に目に浮ぶのです。まるで映画のように。私は読みながら、イギリスの作品の本作とは全く異なるアメリカの名作『グレート・ギャッツビー』を何故か思い出してしまいました!。これは全くの私の勘で、ただ読み込みが足りないだけのような気がしますが『グレート・・・』をお好きな方は、本作もお気に召されるような気がします。<P>小説にも感動しましたが、巻末に収録されているヴァージニア・ウルフが本作のモダン・ライブラリ版へ宛てている「序文」が実に感動的です。まさに「小説」の本髄をついているように思います。<何故小説家は物語を書き、何故私達は小説を語るのか>答えがそこにあります。(補足:一部序文と似た内容を村上春樹氏が『翻訳夜話2』で語っていらっしゃいます)
映画「めぐりあう時間達」を観てから、この本を読みたいと思いました。主人公ダロウェイ夫人は、著名人を招いてのパーティ好きでスノッブなのですが、そんなところも周りの人には魅力的に見えています。ダロウェイ夫人は教育をそれほど受けておらず、そのことは本人も自覚しています。また自分が権力や社会的地位の高い人たちと交わりたいという俗な欲求を持っていることも自覚しています。しかし、そうした面を持っていながらもダロウェイ夫人が軽薄であるわけではなく、むしろ内面には色々考えることもあるようです。若い頃には同性愛をしたり、シニカルな恋人もいて、それなりに危うい青春もあったのですが、最後には安定した人生を選んだ自分の生き方に対して、ある種の割り切りというか、開き直りのようなものが感じられて、親近感を覚えました。