森達也の映像や文章を長く見ていると、オウム(アレフ)の信者に好感を抱いてしまう。その秘密は森のフレームにあるのだと思う。森のフレームとは何か?それは、普通のフレームである。この普通のフレームが森の映像や文章を魅力のあるものにさせている。森の言葉で言えば、「世界はもっと豊かなのである」。ではこの普通のフレームからなぜこんなに魅力的で豊かな感覚を覚えるのか?それは、僕たちはテレビや新聞を通してでしか、オウムを知らないからだ。そして、そんなメディアのフレームになんとなくうんざりしているからかもしれない。信者への好感の理由は、この嘘っぽいフレームを信者に押し付けている暴力に黙って加勢していた自分自身への反省があるのかもしれない。<P> この本を読むことで、!まで当然のように用いてきたフレームを掘り崩されるだろう。そして、森のフレームを通して、森が考えるところの「世界の豊かさ」を知ることになるだろう。
時系列的には、ほぼ同じ素材を扱っていますが、ドキュメンタリーとは、異なる印象を受けました。というのは、映像作品の「A」はオウムの側という視点から描く映像として、オウムにシンパシーを感じさせせるもので、実際に僕も、圧倒的な社会権力である世間と報道に恐怖を感じる弱者側にシンパシーを強く感じました。<P>けれど、この森監督の文章を読むと、「組織従属的なメンタリティ」は、「社会のこちら側」にせよ「あちら側」にせよ、同じ位相であり、どちらがわも「わけのわからなさ」にはかわりがないと言っているように感じました。この「どちら側にも組しない立場」をつらぬく森監督のドキュメンタリー作家としての資質は、見事だと思いました。というか、この立場しかありえないですよね、こういう!ギリギリのラインを扱う作品では。<P>個人的に興味深かったのは、信者が情愛を切断しようとしているところ。宗教にはつきものですが、たとえばキリスト教の隣人愛の概念なんかは、家族や民族を切り離して考える可能性を作り出すもので、僕はその概念を「殺し合いを続ける民族や氏族のセクト争い」から脱出させるものというイメージで理解していました。情愛や「目には目を」の復讐法に縛られるからこそ、物凄い殺し合いが起こるのですからね。しかし考えてみれば情愛から切り離された人間ほど、極端な虐殺行為をも平気で行えるのですよね。うーん、この部分はいろいろ考えさせられました。<P>あと、大江健三郎の作品が奇妙なほどリアル感を感じた。というのは、大江さんの作品は、宗教共同体に自ら選んで入る人や、共同体の内部の世界を描いているからで、今までは「物語」として読んでいたが、日本のいま、この瞬間に同世代のやつらで、同じようなこと現実に生きている人々がいるんだ、というのを突きつけられた気がして、少し背筋が寒くなった。とにかく、日常でリーマンしている自分を、いろいろ考えさせられる作品ですねぇ。
著者の視点がおもしろい。オウムと権力と社会の中を独自の方法で、自分の取材を続けている。荒木広報部長を見つめながらなんで俺はこんなことをしているんだろうと、自問自答したりする。弱者というか異人の視点で、僕たちの社会を問い直す森監督に共感を覚えている