という二つの流れがある中で、そのどちらの極端な意見にも合致しない、そしてその両方に当てはまる脳の不思議が説かれています。切断された腕の刺戟がなくなったとき、脳が曾てあった腕の領域に顎の筋肉の領域を再マッピングし、頬を刺戟することによって幻肢を感じるという解明は、まさに脳の柔軟性に富んだ動的な機動性というものを説明します。また一方で、V4野の損傷によってものが白黒に見えるなど、モジュール単位での固定的な説明が可能である例も提示し、脳というものが一筋縄では説明できない様々な機能の複合体であることを浮かび上がらせます。考えされられるのは、寧ろこれをひとつの人格であると自覚している「わたし」という存在のことです。何がこの複合体を統一しているのでしょうか、「!わたし」というものはいったい何なのでしょうか。あらゆる意味で考えさせられ、そして常に興味深いエピソードで埋め履された素晴らしい本でした。
専門家ではないけれど、脳の秘密がわかっておもしろかった。幻肢(ファントム・リム)で困っている人だけでなく多くの人にとってためになる本だ。<BR>ユーモアのある文体で読みやすく、著者はすべての可能性に対して公平で考えを押しつけられるようなこともない。
人間があるものごとを認識するためには,そのモノに対応する器官がなければならない.空気の振動を「聴く」耳,電磁波を「見る」眼,化学物質を「味わう」舌…….<P>さて,今あなたが思い浮かべている「意識」はどの器官の産物か.脳だ.<P>そして,耳で聞くことの出来る音の周波数が限られているように,脳に展開できる意識も一定の枠内に限られている.その枠組は人間なら皆だいたい同じだ.しかし,ある人は脳の損傷のため人間の顔を見分けることが出来ない(たとえ家族であっても!).あるいは,脳内の音楽に関する領域が広い人は,たった一度だけ聴いたメロディを即座にピアノで再現でき,決して忘れない.<P>つまり,「人間はその肉体の許す範囲の能力しか持ってない」ということだ.思考は脳に縛られている.脳に障害があると,人間は自分の半身が麻痺していることさえ認識できず,「麻痺なんかしていない.私は元気だ」と否認し続ける.彼は哀れだ.だか,「自分は正常だ」と思っている私自身さえ,より大きな脳を持った生物から見れば哀れなのではないか? この疑念が払えない.