「完璧な社会」というのは、どんな社会のことを言うのでしょうか? 戦争がない、飢えもない、貧困や病気や老化さえも存在しない、という社会があれば、正にそれを「完璧な社会」とよぶことができるでしょう。ハックスリーの小説「素晴らしい新世界」の中では、人生の痛みといったようなことがほとんど存在しません。進歩した科学技術のおかげで、この社会の市民は定められた人生の期間、60の間とても楽な生活を送ることができます。かれらには、買い物をしたり、スポーツをしたり、「セーフでフリーセックス」をしたり、という自由もあります。社会階級制度が取り入られていますが、生まれる前に、既にプログラミングされているおかげで、皆自分の身分には満足しています。「ソーマ」という安全なドラッグもあるので、退屈する人は滅多にいません。しかし、こういう社会で、本当の幸せを求めることができるでしょうか。生存の意味とは、ただ楽しく楽な生活を送ることにあるのでしょうか。この物質的に豊富な生活には障害があります。芸術、宗教、それに思想の自由がありません。もちろん、この世界の人口の99.99%はそういう自由を望んではいません。肉体的な苦しみが取り除かれたとしても、「人間の条件」’The human condition'の問題の解決はどこにあるというのでしょうか。ハックスリーは、読者にこういった疑問を投げかけているのです。資本主義、あるいは共産主義の「ユートピア」においては、人類の精神は、なにひとつ見出すことが出来ません。
全体主義的な社会を描いたジョージ・オーウェルの「1984年」や、<BR>ザミャーチンの「われら」と比べると、<BR>イギリス人の書いたこの作品は、大衆消費文化の行き着く先、<BR>という感じで、より、身につまされます。<BR>というか、よく考えると、確かに、そういう社会制度にも、<BR>一理あるような気がしてきて、結局、みんなが幸せになれるんなら、<P>それで良いジャン、と思っている自分に気づき、ショックを受けます。<P>何が正解か分からない世の中で、問題意識を持って、色々なことを、<BR>考え続けるために、読み継がれて欲しい一冊です。
子どもが壜で製造され、フリーセックスが奨励され、全ての人間が条件反射的教育により統制される階級社会。文明化された人間達は、与えられた状況に何の疑問ももたないで生きていた。そんな社会の申し子のような女性・レーニナと、彼女をめぐる男性達を軸に話が展開する。独裁者の登場など、1932年という時代を反映している部分もあれば、1932年に書かれたとは思えない、まるで今の社会を予見したかのようなSF小説。「ありえない話」という意味ではオーウェルの「1984年」とは似て非なる内容だけど、ラストには同じくらいショックを受けた。