財前教授は浪速大学の教授という地位を手に入れたが、医者としての良心や患者に対する奉仕の心はまったく感じることができない冷徹な医者として描かれている。<BR>民事事件の被告として法廷に立つものの、あらゆる手段で法的な責任を逃れようとする一心だ。<P>対する里見は自分の見たままをそのまま証言し、自分の信念を曲げない。しかし、助教授という立場が一蓮托生の大学病院という体質のまえでは足元があやしく、理解者である家族や友人などはその行方を危惧し読んでいるとハラハラしてしまう。<BR>山崎豊子氏の思う壺であるが、裁判記述や医者の見識など、よくぞここまで取材を重ねたものだと感服してしまう。
財前と里見はきわめて対象的な人物像として現れているけれど、財前の中には常に里見が、里見の中にも常に財前がいる。2人は誰もが意識的にも、無意識的にも持っている1人の人間の姿を描いているように思う。それは医師という立場に限ったことではない。安易に財前は悪で、里見が善という結論で片付けられない「もやもや」が、この小説のもっとも「おいしい」部分である気がする。2人はお互いを認めきることもなく、否定しきることもできない立場を終始保持する。作品中で説明的に描写されている「同じ病理学教室で学んだ仲だから」という部分は、山崎豊子さんの照れ隠しであるような気がした。(4)へ
今まさにドラマも佳境に入りつつあるが、高校生の頃、里見の良心、財前の<BR>人間らしさにひかれつつ、財前のような医師になりたい(里見ではない)と<BR>心に誓い、国立大の医学部を受験した当時をなつかしく思い、読んでます。