イギリス植民地化によってアジアに帝国主義が入り込んできた時代から遡って「アジア」の生成、変遷を明らかにしている。後書きにもあるが、「東南アジア」という言葉は戦後にアメリカが中華人民共和国の成立、朝鮮戦争の勃発によってその周辺を中国から切り離すために生まれた言葉にすぎない。それまで地域とみなされていなかった所であるから、アメリカの対アジア戦略のために急速に研究が始まったものの1つの構造としての東南アジアは捉えられてこなかった。これは「東南アジア」などもともとは存在しなかったのであるから当たり前といえば当たり前で、賢明な研究者達はそれを運命として受け入れた上で東南アジアから世界史的問題について問いかけてきた。以上の2つのアプローチ(存在しない一つの構造を追いかける、存在しないものとして受け入れる)に対して疑問を持った著者は東南アジアを歴史的に生成、発展、成熟、消滅する過程として捉える新しい視点を提供している。この視点は新しく研究がまだ進んでいないため、今後のアジアを考える最後の章では主張がまとまっていない感はある。しかしながらこれまでは各論の集合であったアジアに統一的な視点を与えている点は尊敬に値し、今後の更なる研究の進展を期待している。
当たり前のように認識していた国という観念を考えさせられ、改めて東南アジアの地図を眺めれば、いかにいびつで人為的な国境かを認識します。筆者のひも解く「まんだら」というパワーバランスの盛衰は、東南アジアの多様性を理解する手助けとなりました(東アジアの中央集権的国家とは違いますよね)。また、内容も大変為になりましたが、全ての章が有機的に結論へと繋がっていく本の構成も、単なる理論展開のものと違って、これぞ本の書き方!と感動させられました。
自分がどこの国に属しているかということは我々のアイデンティティーの一部となっている。しかし、こういった考え方はそれほど古いものではない。国民という概念は時間をかけて生成されるものなのである。東南アジアにおいては特にそうである。本書は東南アジアの国家がどのような歴史的経過を経て生まれてきたか、そして、その歴史は現在の東南アジアをどのように規定しているかを詳述している。国家というものは我々にとって当然のように存在しているように感じられるが、それはそれほど当たり前のものではないのである。国家とは?、東南アジアとは?、色々と考えさせてくれる本だ。