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| 「明治」という国家 (下)
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司馬 遼太郎
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司馬遼太郎が、幕末・維新の人物や事件等について語った本ですが、司馬遼太郎は(あえて)断定的な言い方をしていません。従って、読み手は、司馬遼太郎が取り上げる事象を考えるヒントにして、色々なことを考えることができます。<BR>しかも、読み手の知識が増えるたび、年齢を重ねるたび、読むたびに、考え方<P>が変わってきます。即ち、読み手の成長に合わせて、本書の読み方が変わってきます。こういう本のことを稀代の名著というのではないでしょうか。
「明治」という国家 (下)
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| 明治維新は「革命」であったのか、薩長土肥連合による王政復古クーデターにすぎなかったのか。歴史家の間で意見の分かれるところである。本書で司馬は、幕藩体制の担い手だった武家階級が自らのハラキリによって「廃藩置県」を実現し、「国民国家」の土台を築いたことは、世界にも稀な革命であった、という明快な史観を展開してみせる。これほどの「政治的破壊作業」ができたのは、欧米列強のアジア進出に「日本人が共有していた危機意識のおかげ」だった。明治は「透きとおった、格調の高い精神でささえられたリアリズム」の時代で、そこに出現した「明治国家」は、江戸270年の精神遺産だった。司馬は江戸と明治の2つの時代に、脈々と流れる精神の連続性を見る。その具象として、小栗忠順、勝海舟、福沢諭吉、西郷隆盛、大久保利通ら多彩な群像を、科学者の透徹した目と小説家の豊かなイマジネーションで、鮮やかに浮かび上がらせる。「明治は多くの欠点をもちつつ、偉大としかいいようのない」時代だった。これに対して、戦後までの昭和は「イデオロギーが充満して国家や社会をふりまわした時代」で、まるで別国、別民族の観があると言う。しかし、この「非連続性」をもたらしたものが何であったか。残念ながら、司馬は語っていない。(伊藤延司) |
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