内容については、あらためて言う必要がなさそうだけど、<BR>国語とはこういう教科だったのかと言うことに、<BR>目を見開かされた。<P>一つの感想だから、ここで述べてしまうと、<BR>つまり、国語には、文章の鑑賞という視点から見て、<BR>すくなくとも二つの態度があると思う。<P>ひとつは正しく読むこと。<BR>もうひとつは全体や部分から把握した意味から、<P>自分の人生に実りある内容を取り込むこと。<P>前者は解釈学であり、文法や文献知識など、<BR>漢文や古文の素養はこれに相当するのだろう。<BR>著者はこの部分に関しても、相当の学識経験がおありだ。<P>後者は現在見落とされている視点で、<BR>だが、その文章のどこが大事で、どこが面白いかを、<BR>見抜く力があればいいと言うことだろう。<P>昨今の感想文で体裁が必要となっているのは、<BR>この二つが混同しているからであり、<BR>”3色ボールペン”、この著者の試みは高く評価したい。<P>この本が売れるか売れないかは、<BR>この国の未来を占う意味でも重要かと、<BR>勝手に思っていたりもする。
小学生だからといってやさしい文章を教えるのではなく、いきなり大人でも通用する「名文」を読ませて国語教育をするのがよい、と筆者は訴える。著者の「理想の国語教科書」にリストアップされた名文は全部で31。なんと私が読んだことがある作品は4作だけであった。唖然としたのと同時に、私の国語力が貧弱な理由も納得してしまった。文藝春秋2002年5月号pp.168で例に挙げた小林秀雄の「人形」を題材とした国語教育は、なるほど!と思えるものである。しかも、「小林秀雄の文章なのだから、無駄がなく、どこが重要かの線をどこに引いても間違うということはない。どの子どもも、それはいいところに引いたね。と誉めてやることができる。」オーストラリアの教育にも通じる、誉める教育方法。流石だ。少なくとも解説の部分を読んで、斎藤氏の著作を買って読みたくなるし、流石だと思ったのは事実なので、斎藤孝氏の国語力も凄いということだけは確かなようだ。<P>小さい子にもいきなり「本物」に触れさせる、ということは、昔の日本では当たり前のことだったのではないだろうか。勿論昔は、教育に余裕がなかったため、「門前の小僧、習わぬ経を読む」みたいにオンザ・ジョブ・トレーニングだったろうし、教科書だっていきなり原著を読むことも多かったであろう。小学生に名著をいきなり読ませるという、一見粗療法も、案外小学生の方で適応できるのではないだろうか。<P>子供に読みきかせる前に自分がのめり込んで読んでしまう、お勧めの本書である。
大人になって文章を会社で書くようになって、自分は、文章を書くことがいかに不得意であるかがよくわかりました。中学、高校の教科書に出てくる文章というのは、どれもこれもすごい方々の文章だったのかと思うと、自分は、なぜあんないい加減な態度で授業に臨んでいたのだろうと今更ながら後悔しています。<P>この本を読んで、いい文章を出会う必要性を感じました。どうしても雑誌や新聞やレポートになじみがわいてしまうサラリーマンもじっくり読んでほしい本です。