適合力をもたない芸術は滅びざるを得ない。と、丸山はいう。ならば、なぜヨーロッパのクラシック音楽は数百年間に及ぶ生命力を持ち得たのか。<P> 「調整と形式」がヨーロッパのクラシック音楽の基礎だ、と丸山はいう。言いかえれば、それを確立した音楽をクラシック音楽といってよいのかもしれない。<P> ベートーヴェンの交響曲を聴いているときの、何ともしれない息苦しさ。そして苦しければ苦しいほど、味わうことの出来る聞き終わった後の快感。<P> なぜ苦しいのか。どうして気持ちがいいのか。やっとわかったような気がした。それだけでも本書を読む価値があった。(丸山の着想もさることながら、筆者の解説がすばらしい。)<P> 丸山真男は、戦後思想史の巨人だ。筆者は、いわば丸山の教え子。「弟!」といってもいいのかもしれない。「一生がこの人物について語り続けることで終わってしまうかもしれない恐怖心に襲われた」とすら言う。 <BR> <P> しかし、意見が異なって議論めいた場面になっても、「言い負かされた」とか「相手が先生なんだから仕方がないや」という不愉快な思いを味わったことはない。と筆者は言う。筆者はそれを丸山の人柄がなせる業であったと評価するが、同時にそれは筆者の人柄もあってのことだと思う。<P> 民族や国家というかなり重いテーマを扱っているのに、さわやかな読後感を感じさせる一冊だ。
丸山真男の人間像を知るだけでなく、よき時代のクラッシック音楽を知りたい人にも面白く読める本。<P> 丸山がいかに西欧の古典音楽が好きであったか、とくに晩年は「本店」としての政治思想史の学問をうっちゃるほどに入れこんでいたことが、本書を読んでよくわかった。そういう意味では、思想史家としての丸山だけに関心のある人には向かない本かもしれない。が、丸山の人間像を知るには読まざるを得ない本だと思う。<P> もっとも興味をそそられたのは、フルトヴェングラーを例に挙げて、ナチス独裁政権下の明日をも知れない極限状況でこそベストの演奏ができたのではないかとの問いに丸山が苦しい返答をせざるをえなかった記述だ。丸山とは離れるが、極限状況下の優れた音楽演奏はよくあることで、あの名ピアニストのリパッティも、ジャンルは違うがジャズ演奏のコルトレーンも、自身の肉体が滅びる寸前に偉大な演奏を行なっている。<BR> <BR> 著者が車で丸山を別荘まで送る際の、丸山のひどく喜ぶさまを描いた箇所も面白い。かつては東大法学部で丸山の講義を受け、いまは公用車での送り迎えに慣れきった亡国の高級官僚や財界のお偉方に読ませたい。<P> 師匠丸山の文章とは対極のように、流れるようなかろやかな文章でスラスラと読み飛ばすことができるが、そのぶん軽薄で大袈裟で俗っぽく、筆が流れすぎる嫌いがあるのが唯一の欠点か。
政治学者としての丸山真男は、私にはどうも、なんでみなそんなに偉大だ、偉大だ、というのかわからないのであるが、それはさておき。。。<P>政治と音楽を一つの地平で学問するのは、マックス・ヴェーバー以来のインテリの伝統であるが、丸山のそれは、アマチュア音楽評論家のそれを遙かに超えていたものらしい。さらに言えば、ドイツにおける音楽の存在意義を、政治に対抗するものとして分析をしていた、とも思える。さらには、政治学において、音楽用語(「通奏低音」のような言葉)を使って分析をするとは!<P>丸山の言葉を通してはいるが、相当著者中野氏の考え方も入っているようには思うが。丸山の政治学者以外のプライベートな面が知れて、大変興味深いものがある。