ウェスト・ウィング(西棟)の中の情景が、何の文字も無く<BR>一定の構図で淡々と、描写されていく。<BR>見ていくうちに、ひたひたと不安がたまってくる。<P>そう、この本を見て感じるのは、恐怖ではない。<BR>その一歩手前の段階、不安を感じさせられるのだ。<P>今までに何があったんだ・・・これから、何が起こるんだ・・・<BR>これは、何だ・・・あれは、誰だ!<P>恐怖の対象が、直接描かれる事はほとんど無い。<BR>対象が解かれば、不安もある程度解消される。<BR>ここでは、最後まで何も解からない。さらにその先を想像すると<P>ここは、何処なんだ? 何処の西棟なんだ? 今は、何時だ?<BR>だいたいなんで来たんだ? 何人で来たんだ? 一人で来たのか?<BR>私は、一人でここに居るのか!?<P>ゴーリズム満載で。エドワード・ゴーリーの魅力が染み出してます。<BR>僕は、この本で初めてゴーリーに出会いました。<BR>ぜひ、ご一読を。そして君もりっぱなゴーリストを目指そう!
この本について他の皆さんが書かれているレビューを拝見して、文章が一切ないのにとっても怖い、というのが何を意味するのかと大いに好奇心をそそられました。そして実際に手にとってみると、確かにこれは「怖い本」です。<P> 何がどうしてこんなに怖いと思わせるのだろうと、自分なりにあれこれ考えてみました。廃墟のような建物の内部を描いたモノクロの線画ですが、一部には人の姿が描かれています。だから淋しい一方の絵ではないはずなのに心胆を寒からしめるものがあるのです。それはこの本が「ゼロの人間関係」を描いているからではないでしょうか。わずかに描かれている人の姿はこちらを見つめているようですが、彼らの相貌からはコミュニケーションへの意志が微塵も感じられません。こちらを見ているようでいて焦点が定まっていないうつろさがあります。そしてこの本には一切言葉がない…。<P> 言葉のやりとりによって初めて人は人と関係を切り結ぶことができます。関係を結ぶということは心に安らぎを与える行為でもあり、それが存在しない場面は極度な不安感を与えます。ひっきりなしに常に携帯でメールのやりとりをしていないと孤独感にさいなまれて仕方がないという人。最近家族との会話が減って淋しいという人。そういう人にこの本は、意思の疎通から隔絶された、ある種の置いてけぼりを味わうかのような恐怖感を与えくれるはずです。一度のぞいてみてください。
小さいころ、廃屋を探検したときに感じた不安が蘇ってきました。薄暗くて、妙に静かで、外とはちがう空気のにおいがする。がらんとした部屋なのに、誰かがこちらの様子を窺っているような気がする。床に足跡がついてしまう。埃のせいだ――<P>――というのは嘘です。廃屋なんてありませんでした。でもこの本を眺めていると、経験しなかった記憶が呼びおこされてしまいます。開いたドアの向こうに、もうひとつ開いたドアが見えたり、梱包したままの荷物が残されていたり……<P>「西棟」のスケッチが淡々と描かれるだけの作品ですが、ときどき「そりゃないだろう」という場面もあって、悪夢のヴァリエーションが豊富になりそうです。普通の廃屋にはミイラなんて歩いていませんよね。<P>(研究書 The World of Edward Gorey によると、なんでもゴーリーはクローゼットにミイラを保管していたことがあるらしく、大家さんに見つかって大騒ぎになったとか。心温まる逸話です)