ドーキンスはケンブリッジ大学の動物行動学者。原著が出版されたのは1976年。著者はあらゆる生物の行動を一貫して突然変異と自然淘汰という2つの原理のみで説明しようと試みている。利己的遺伝子という概念はそのためのツールであるが、言葉が独り歩きしている感が強く思想界から一般の間違った俗流の生物学者にまでインパクトを与えている。間違ってはいけないのはこのこの言葉は概念であり実体はないということである。著者自身、「自然淘汰の単位として役立つだけの長い世代にわたって続きうる染色体物質の一部」という曖昧な定義を採用している。古典として是非読んでおくことをお薦めする。
事実に対する解釈はひとつとは限らない。一方、無限にさまざまな解釈があるわけでなく、直感的な説得力をもつ”解釈の収束点”がいくつか存在するのだろう。自分の視野がある収束点とは違う収束点の存在を教えてくれた。この本を起点に、新しい視点を求めて、ドーキンスの他の著作、グールド、カウフマンと読書の幅も広げられた。<P> 人間が生み出した道具だからもつ宿命なのなのだろうか。わたしたちが使う言葉には、主観的なニュアンスが内在している。たとえば、使われる文脈で多少の違いはあるだろうが、「AがBをする」という表現の場合、Aというものを擬人化し、その何らかの意志の存在を感じさせてしまう。<P> 「利己的」という刺激的な言葉が使われれば、読者はそこに意志や道徳を感じざるをえな!。本書は、言葉の持つこのような主観的な特徴についての丁寧な説明からスタートする。一見、本論とは直接関係のないようなこの話題から、すでに「事実を見る新しい見方」についての気付きが始まる。<P> 前書きで「科学者ができるもっとも重要な貢献は、新しい学説を提唱したり、新しい事実を発掘したりすることよりも、古い学説や事実を見る新しい見方を発見することにある場合がおおい」と表明されているとおり、本書は既に知られているさまざまな事実を注意深く再度検討し、その解釈の可能性を探っている。
この本ほど、自信を持って薦められる本は他にない。<P>「私たちは遺伝子の生き残りのための機械にすぎない」この充分に論証された仮説は、「私たちはなぜ存在するのか」「私たちはなぜこのようにふるまうのか」という、素朴な疑問にダーウィン以上に正確な回答を与えてくれた。「遺伝子利己主義」は道徳理論ではなく、科学理論である。したがってここから「私たちはどう生きるべきか」という疑問への回答を直接引き出すことはできない。しかし私たちは「個体利己主義」を前提に社会契約説を打ち立てざるを得なかったヨーロッパ近代の思想家たちと違って、「遺伝子利己主義」という、より正確な事実認識の上に、あらたな道徳理論を構築することが可能となったのである。この本のインパクトはそれほどまでに!きい。