著者によれば、いまの日本人で内政的にいい判断をしたのは田中眞紀子、対外的にいい動きをしたのは緒方貞子しかいない。田中眞紀子は外務大臣就任直後にアメリカに行って沖縄駐留米軍の移動を直言した。緒方貞子は、アフガニスタンの難民問題がいちばん重要だと指摘していた。日本は20年間で難民受け入れは300人以下、エンタテイナー受け入れは10万人。この現実に緒方は苦言を呈していた。<P>たけしのテレビ番組なども引き合いに出して、著者は平易な表現で、イラク問題や拉致問題、経済や国家の問題について語っている。大切なことは、いよいよのときは国の法よりじぶんや家族の原則を大切にすることだ。じぶんの原則と国の法は根本的にちがう次元のことなんだということを心得ておく。このような原則を押さえておけばそんなに間違えることはないという。<P>戦争中はお国のために、あるいはいまラジカルを他に強要することはいけないと著者は言う。じぶんたちはこうするけれども、ほかのひとたちはのびり・のんきにやってくれとふるまうことがいま日本国で重要だ。こうしたしなやかな心はアメリカに学ぶ必要があると著者は言う。<P>しかし、自由主義というしなやかさを持つアメリカも、イラクに対するやり方は全く不当である。武力で政権を変えようというアメリカの行為はどこからどう見ても国際的な越権行為だと著者は言う。<P>著者は、少年時代をふりかえって戦争中は、国がつぶれるまでやれとおもっていたと正直に語る。しかし、指導者がどんなにきれいごとをいってもいちばん戦争で犠牲が多いのが指導者の言うことを真に受けた愚民の愚かさだ。どんな賢い人でもいつでも愚民になりうることを決してわすれてはならないと著者はいう。戦争時代を実体験した先人の大切な言葉としてこれを受けとめたい。
拉致問題、イラクへの自衛隊派遣など、状況がいよいよ混沌としてきた今日吉本隆明にはそろそろ何か言ってほしいなと思っていた矢先の本書である。<P> 内容的には、これまでの主張と重複する部分が多いが、石原内閣の可能性に言及したり、「(現政府)は敗戦以前の日本だったら考えられないほど軟弱だ」とか「(無批判な米国追従は)日本的な種族の考え方ではない」と言った発言もみられる。右だの左だのを超克した吉本思想はここでも健在だ。「どうせ米国に同調するのなら同調ついでに今の不況を帳消しに出来るくらいの経済的見返りを要求すればよい」などと言う単なるヒューマニストとは一線を画する吉本の立場は「国民一般の同意がないまま派兵すれば直ちに日本の都市・地方住民はいつでも死に晒される」という危機意識に基づいている。<P> 全体として小泉内閣を糾弾する筆鋒ますます鋭く、事態が容易ならぬ方向に推移しつつあることを感じさせる。いずれにせよ、この書物を手に取るのが単に吉本ファン(もしくはアンチ吉本)だけにとどまらないことを期待したい。
国家は宗教の最終形態であり、古層として宗教そのものも存続しているが、国家が解体しない限り宗教も解体しない。これはマルクスも言っていない自分の考えだと吉本はいう。<P> そして宗教そのものには地域個別性や国家との距離で種別性があっても、基本的に同じものだという。宗教学者は自分の調べている宗教を一番良いとしがちだが、汎神論だろうと一神教だろうと同じもののバリエーションに過ぎないという。<P> 景気対策については個人消費の拡大と第三次産業への公共投資、その他外交のやりかたや、リストラを防ぐには役員の退職金を差し引けなど、政治経済の具体的な問題に論及している。<P> 国土が巻き込まれる戦争になったら為政者や官僚は真っ先に逃げ出すから、憲法だろうとなんだろうと国家の法律であって個々人が従う必要はなく、国のいうことに何でも従うというのはアジア的な発想だという。<BR> であるから吉本が「憲法九条がいい」というのはあくまで国家の側が国家を解体してゆく方向性をもつという脈絡でしかないことになる。<P> 拉致問題の延長から、核開発競争を止めさせないと核カードを切る国はなくならず、それには核拡散条約を改定して段階的にアメリカ・ロシアから核を廃絶してゆくしかないという。<BR> それと国家が軍隊を必要にすることはあっても、軍隊が無いと国家じゃないというのは本末転倒だとある。<P> ハイ・イメージⅢにおける「生産と消費の遅延」という概念が、具体的に個々の主要商品の生産から消費までのトレースが必要だという案が出されていて一寸注目される。<BR> 石原内閣の可能性についても言及している。