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「不自由」論―「何でも自己決定」の限界 ( 仲正 昌樹 )

ゆとり教育に関する国の方針には何か納得できないところがある。「ゆとり」という考える時間を子供にあたえ、「自発的に主体を獲得」するように「教育」する。「自発的」な行動を「教育」する、というところですでに何か怪しくなってきているが、ここには「主体」という概念を官僚を含め多くの人がきちんと理解できていないという問題があると思う。著者はこのような「わかっているつもり」になっている「主体」の問題を優しく解説し、その「不自由性」を気付かせてくれる。<P>当の本人が「主体的に決断した」と思いみ、主張すれば、それは主体的な決断というふうに見えてしまう。しかし、実際、純粋に主体的な判断というものは不可能なのである。さまざまな外的要因やその決断のコンテクストによって、主体は影響され、変容する。これが不自由ということだと思う。「主体それ自体」というものは存在しない。あるのは対処すべき問題について「瞬間的に形成される主体」のみである。<BR>最後に「主体」という概念の歴史的位置付けが資本主義社会を例に出して語られるが、これはとても面白い。資本主義社会の経済効率という考え方が「主体」に関連しているのだ。

本書で筆者はアレントを用い、もはや虚構に近い分かりやすい「主体性」に走ることも無く、つまらない「本音」をいうのでも無く、いかにして人は公共的に新しく語れるのかという難しい問題に取り組んでいる。しかし、結局提示する運動としてはネグリの言うマルチチュード以上の物は示せてないし、「自由な自己決定」、あるいは「非主体的な自己決定」への強制からの自由について考えるべきだと問うのみである。それについても偶有性についての議論があるはずでそこには言及しなかった。いずれにせよその問題は一般の人間にとって「公共的」には見えにくい。ただ、新書としてはアレント、ルソー等についてわかりやすく書いており今の状況に絡めて書いているので、十分楽しく読める。

 タイトルとサブタイトルとから分かるように、〈「自由な自己決定」を迫られる「不自由」〉という、なんとも自己撞着的な最近の状況について段階を踏んで述べられてゆく。<BR> <BR> 「ゆとり教育」や「インフォームド・コンセント」といった例があげられることで、一見自由に見えるものの裏に潜む不自由さを痛感する。<BR> <P> 核心部分に迫る第4章に至るまでで、その準備として哲学、社会思想史、現代思想、教育学など様々な分野からの基礎的検証がなされるのだが、それが議論の共通枠組を知る上で有効。ゼロから分かるので勉強になる。<P> 誰でも自己形成をしてきた共同体的文脈を持つのだから全く自由に自己決定する事はできない。にもかかわらず、それが「自由」の名のもとに強制されているという状況!は、著者の言うとおりわれわれの日常生活の至るところに、あらゆるレベルで蔓延している。<P> ただこれといった解決策の出にくい議論。<P> ちなみに難点をあえて言うならば、「―…なのだが。」という表現が度々出てきてウザいかもしれない。

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