概念は周知のとおりだが、細部がなかなか読ませた。フロイトと、社会学的な部分で対立するわけだね。しかし、結局、心理学の領域を出ないのではないか。あるいは、文化によってしまえば、カルチュラルスタディーズになってしまうのではないか。人が金という価値観に執着してしまうのは、彼が拠り所として他に、家族も、社会的けにも、誇りも、何ももたないゆえに、人から評価してもらうには、金に執着するしかない、という指摘は御立派。・たえまない不安は、孤独になった無力な個人の状態から生まれるのであり、そしてこれがかれのなかに破壊性を進展させるもう一つの源泉である。
本書は、ナチスドイツが何故成立するに至ったのかを、当時の社会的経済的要因・人間の心理的要因から迫るものである。本書は、ナチスドイツという具体的な事例を挙げているが、その分析は本質的であり、条件がそろえばいつでもナチスドイツ的組織が成立することを示唆していると思われる。<P>人間の歴史は自由を獲得しようとする戦い(デモクラシー)の繰り返しであり、ナチスドイツ=権威主義的組織の出現においても、人間の歴史からすれば、この権威・抑圧を打破する戦いが生じる予定であった。しかし、現実はこの権威・抑圧に服従するに至る。著者は、自由獲得の戦いに至らずそうした権威・抑圧に服従するに至った点に問題意識をもち、当時の経済的・社会的要因と人間の心理的要因との交互作用という問!を分析することで、これに答えを出している。すなわち、経済的・社会的要因として資本主義が発達し、それによって人間がそもそも持っていた「自由」の意味が変化し、自由獲得の反面、人間に孤独・無力をも認識させるにいたった点、そうした孤独感・無力感は、心理的には人間に「逃避のメカニズム」を準備し、権威への服従や機械的画一性によって安心感を与えてくれる、これがナチスドイツを成立させる、という現象を発生させる、ということを主張するのである。<P>こうした主張は、人間が本質的に持つ二面性を示唆していると思われる。つまり、人間は一方で個人的合理性のために「自由」を求めようとするが、他方で社会的合理性のために「個人の自由」を捨てようとする、ということである。こうした個人的合理!性と社会的合理性の迫間でナチスドイツ(権威的組織)が成立し得た、という点に注目すべきであろう。
自らもドイツ生まれのユダヤ人として,ナチズムと否応なく向き合うことを余儀なくされた社会心理学者フロムにとり,人間が社会の中で,人間らしくありながら「自由」に生きることの困難さは自明のことであった。一見,近代化に伴って諸権威から解放されたはずの人間が,なぜか自ら権威を作り出して不自由の中に身を置こうとする。この構図は現代社会に置いても変わることがない。この「当たり前すぎて気がつかない(Taken for Granted)」人間の本性に潜む精神構造を鋭く暴いた本書は,現代社会に生きる我々にとって,永遠の命題を鋭く突きつけている。<P> 一方,「ではどうすれば良いのか?」--読み手の側からの問いかけに関して,フロムは愛と生産的な仕事を挙げる。しかし,その解答の普遍性についての論拠は曖昧なままである。ここに,カソリックだったフロムの限界があるようにも感じられる。課題が残るとすればこの点ではないか。<P> 視点を巨視的にとると,この著書もまた,20世紀におけるポスト・モダン思想の心理学における実践であったのだという事実に気づかされる。結局,普遍的な解答など存在しないのだ。それ以前に,解答において普遍性を求めることそのものが,そもそもモダニズムであり,自由ではないのだよ・・と居直しかないのかも知れない。間主観的な合意としての解答だったのか。それとも,ポストモダニズムの不毛を予見していたのか。そういう読み方をすると,読むべきところはまだ隠れているという気がする。