日頃心の中に思っていた疑問を非常に明瞭に意識することが出来た。冒頭の学生の私語に関する具体的な説明によって、いかに日本人が言葉を信用していないか、また、いかにそれを恐れいてるかを知ることが出来る。ある学生は教授に注意されたとき、それに無言で対応する。そして、後で教授の部屋の入り口にある標識を暴力的に破壊する。完全に言葉によるコミュニケーションを無視している。また、後半「やさしさ」の暴力性について語る。日本で言われる優しさとはつまり利己的な行為であり、それを行うことにより自己の安全保障をしようというのである。優しさがないと言われることが全人格的に抹殺されると言うことが起こりうる社会で、倒れそうな老人のためにいかにも暴力的な男に席を譲ってもらえないかとたずねることが出来るだろうか。<BR>灰谷健次郎を批判的な視点で見つめているのもよい。<BR>著者が考える対話の基本原理がとても面白い。一つ例をあげると、(11)自分や相手の意見が変わる可能性に対して、つねに開かれていること。あなたは理解することができるでしょう。<P>先日、あるコーヒーショップで私は誤って禁煙席で喫煙をしてしまった。となりでこちらを見ている視線が感じられる。視線をずっと送ってくる。そちらの方を見てもただにらんでくるだけである。とうとう、彼は怒りだし大声でここは禁煙席だ!と私に怒鳴った。これは何を意味しているのか、私だって好き好んで禁煙席で煙草を吸っているわけではない。どうして、一言注意をしてくれなかったのか。コミュニケーションの断絶を感じる。この本はとてもよい本だ。
本書は、ヴィーン大学留学経験を持つ哲学博士が、対話という切り口から現代の日本社会を批判的に分析した本である。やや「日本的」という形容詞を安易に使いすぎる気がするし、公共の看板等への非難もやや言い過ぎの感がなきにしもあらずだが、日本では相手の言葉の裏を読むという「第二のルール」が強力な作用を及ぼしており、それがかえって言葉の「表」をきちんととることを妨げ、一方では私語や沈黙を、他方では公共の看板等の氾濫をもたらしている、とする本書の主張は基本的に首肯できる。とりわけ、対話の基本原理(対話は会話でもディベートでもない)とか、行き過ぎた「やさしさ」が対話を圧殺するという主張などは、まさしく我が意を得たりという感がある。対話が全人生を背負うものだという!観点を強く打ち出すあまり、対話が事実立脚性と論理的一貫性に基づく、という側面があまり強調されていないのが、難点といえば難点か。また、対話はなされるべき場でなされさえすればよく、全生活で実践しなければならないものでもない気がするので、そうした「場」の限定があってもよかったと思う。ちなみに私見では、授業としての道徳教育の無効性や教師への日の丸・君が代の押し付けの無意味さも、本書の内容から導き出せると思う。<BR> いずれにせよ、真の「対話」の意義と同時に、その実現の困難さをも教えてくれる本であり、とりわけ研究職や教職につく人、政治家、官僚には是非一読をお勧めしたい。<BR> <BR>
釈然としなかった自分の心が解った部分、多々ありました。私は仕事上、「人に優しくあろう、いつも思いやりを…」と心がけています。が、優しくしたつもりでもどこか間違っているような気がずっとしていたのです。 <P>「自分がされるといやなことは、人にはするな」とか「いつか良いことがあるから人には親切にしておく」とよく世間で言われるのにも、長年「これはいったい何というものなんだろう。 はたして、優しさだろうか…?」と思ってきましたが、個人を拡大した上での功利主義だというのに気づかされました。 また、海外体験のない者にとって、西欧文化と日本文化における個人主義のあり方の違いもよく参考になりました。 <BR>対話か、会話か…どちらにせよ、命がけです。 腹をくくって、相手!と向かい合うことができそうです。