本書は、最近故人となったパレスティナ生まれの米国市民にしてコロンビア大学の文学教授であるサイードの代表作である。オリエンタリズムとは、西洋が東洋=オリエントと自己の間に越え難い区別を設け、東洋を定型的に語ることにより、東洋を鏡として自己についての定型的なイメージをも構築し、それにより東洋と西洋との現実の権力関係を生成し合理化することを意味する。彼はそうした自説を実証するために、主として18世紀後半以降の英仏米の言説に焦点を絞り、知と権力の絡まりあいを具体例を通じて考察している。<P> 本書の意義については、もはや贅言を要しないと思う。ただ、方法論としてのオリエンタリズムを単なる西洋中心主義批判と考えては、かえって可能性を狭めるように思う。たとえば日本場合には、西洋についての定型的なイメージに基づく日本人論により、自身の勤勉さを論じるというオクシデンタリズムも見られるし、また男女関係や政治家と庶民の関係、教師と生徒との関係など、「権力関係」の見られる場の分析に際しては、本書の考え方は大きな成果をあげるように思われる。したがって、私はオリエンタリズムを広く「偏見」の持つ社会的な力と捉えていいのではないかと考える(この場合「偏見」は場合によっては学問の形をとっていることもあるので、厳密には「イメージ」と言った方が正確なのだが、こういう言い方のほうがイメージしやすく感じる)。
先日(二十四日)、E.サイードが亡くなった。<BR>享年六十七才、死因は白血病だったという。<P>本書は「オリエンタリズム」という言葉に含まれた、<BR>多分に西洋的なものへの批判文だ。<BR>その思想史上の偉大さは、今さら私が語るまでもあるまい。<BR>我々からして既にこの本を西洋的な目で見ている――。<BR>そのことに気付いた時、必ずや得るものが有るだろう。<P>言い方は悪くなってしまうが、これを機会に一読をお勧めする。
私が本書で一番強く印象づけられたのは、オリエンタルではなくてウェスタンでした。たとえば現在進行形のイラク戦争。アメリカのWASPがアラブ(及び日本を含む非西洋)をどう見ているのか、大変納得させられてしまいました。ーーかつて<密林の聖者>と呼ばれたシュバイツァーは、現在全く評価されていません。彼のアフリカ人に示す愛情が、まるでペットに対するもののようだったからですが、でも本人がそこに差別を意識したことはなかったでしょうし、その点では、彼にノーベル平和賞を与えた人たちも同じでしょう。この辺の西洋と非西洋との落差への鋭敏な反応は、「殺される側」という立場を明確にした本多勝一氏とかなり重なる部分があるように感じました。本書に興味を持たれた方には、本多氏の!作にも親しまれることをお勧めします。