サイードは本書の中で知識人のあるべき姿を語っている。だが、これはむしろ私たちひとりひとりに自らのあり方や生き方を問うているのだと考えたほうがいい。たとえば、彼は何度となく「弱者の側、満足に代弁=表象されていない側、忘れ去られたり黙殺された側につくか、あるいは、大きな権力をもつ側につくか」と選択を迫る。ずばりストレートに、そして、きわめて真剣に。私にはそれがサイードという個人の生き方を端的に表しているように思えてならない。そんな彼だからこそ、たとえば「もし敵による不当な侵略行為を非難するならば、自国の政府が弱小国家を侵略した場合にも、ひるまず非難の声を上げられるようになっていなければならない」というこの上なく単純明快で、しかも力強い主張が生まれてくるのだろう。本書で読むべきはこのような圧倒的に魅力的な個人である。若い人たちは大いに励まされるんじゃないか。
先日(二十四日)、E.サイードが亡くなった。<BR>享年六十七才、死因は白血病だったという。<BR>後年の彼はパレスチナ問題について、<BR>繰り返し米国政府を批判してきた。<BR>だが、彼はただそれだけの人物ではない。<BR>批判だけなら、誰でもできることだ。<BR>この本でサイードはこう述べている。<BR>知識人なら、自らの信念にのみ従うべき――。<P>その通りに生きたひとを、私は寡聞にして知らない。<BR>言い方は悪いが、これを機会にご一読をお勧めする。
揺れない葦としての知識人。<BR>日本の言葉に掛けて言うなら、「実るほど頭を垂れぬ稲穂かな」とでも言うべきだろうか。<BR>知識という非物質的な所有によって自己を豊かに、そして自分の信念を確固たるものにするにつれ、その信念に反するものに対しては―それがたとえ自らの所属する国家や社会であろうとも―いかなる容赦もせず敢然と批判を為す、それが知識人だ、と。