「公」と「私」が対立的な概念でないことを非常に分かり易く解き明かしながら、これまでの対立的な公私概念にある種の欺瞞があることを痛烈に指摘している。そして、その欺瞞が思想を「生み出さない」土壌となっていることを主張しながら、この日本にどのようにしたら「思想」を取り戻すことができるか模索する、きわめて切実な思想的探求である。<P> 公的な自分と、「プライベート」な自己を本当に切り分けることができるのか?<P> いわゆる<公人と私人>という政治的まやかしに懐疑的な人のみならず、日常的にやたら「プライベートですから・・・」とのたまっている人は一読したほうがよいだろう。 <P>同時に『意味とエロス』、『現象学入門』竹田青嗣(著)を読んでみることをお勧めする。結局私たちは主観からしか出発することができないという現象学的立場と、加藤典洋が提出する公私概念には何か共通するものを読むことができるのではないだろうか。そういった意味では、加藤典洋は非常に理知的に社会像を構想しているといえる。加藤典洋を右派的に読んで妙に警戒する読者(団塊世代か?)に時々出会うが、そういう印象を受けているひとにはなおさら併せて読んでもらいたい。<BR>(思想とは、より高次の価値を生み出す原動力なのだから、あまりネガティブな読み方をするのはやめよう)
タイトルは日本の思想・宗教史のようであるが、中心となっているのは、タテマエとホンネという日本独特の思考構造の分析といってよい。著者は、一般の通念に反し、ホンネが本心や信念とは全く違うものであるという。ホンネとタテマエはセットになってはじめて意味をなすもので、「どっちでもいいや」という投げやりやニヒリズムに基づくものである、との指摘は卓見である。結果的に、本心や信念を持つことの放棄となっているわけだ。こういった卑屈さやニヒリズムは、近代に入って怪しげな「公」の概念が信じられてきたことにも一因があるとされる。福沢諭吉の「立国は私なり、公にあらざるなり」(「痩我慢の説」)という言葉が取り上げられ、真に「公的なもの」の確立には、本心や信念としての「私情」がベースだということが論じられる。本書は様々な卓見を含んでいるが、著者自身も言うように、確かに文章は分かりにくい面がある。博識のため話題があちこちへ行き、文脈がつかめず主旨がぼやける部分がある。例え話まで分かりにくい。よい内容なだけに、やや残念である。
日本を「了解の共同性」と捉え、そのような社会においてはタテマエとホンネを適当に使い分けながら生き延びることが重要であり、真実だとか信念だとかは二の次になるという話から筆者は始める。そこでは、二枚舌や二重構造も当たり前のように存在し、人々は何が本当で何が嘘かということに関してはたいして興味をもたなくなる。<P> 重要なことは、そういうニヒリスティックで日和見的な社会では、個人から生まれる切実な信仰や思想が育たないことである。そして、ついには、言葉は何の力ももたなくなるだろうと筆者は警告する。たとえば、「踏み絵」で命を落としたキリシタンを理解することは、そういう人々にとってはまったく理解不能な事件だろう。<P> そして、アーレントの話へとつながってゆく。「言葉!が!死ぬと、人間から公的領域というものが消える、公的領域が消えると、生きることの意味が消える、その結果、人は、単一なものに対する対抗原理を失い、最終的にはある種の全体主義を呼び寄せてしまう」。考えられたことは必ず発語されなくてはならないのだ。<P> 該博な知識と斬新な視点があいまった筆者独自の知の快楽を、廉価な新書版で楽しむことができるのはありがたい。読みながらこれだけ楽しめる思想家はそう多くはないのでは。