~ 科学を志す者だけでなく、どちらへ進んだら良いのか、何をしたら良いのか、迷っている多くの若者と万年少年にお薦めする。<BR>~~<BR> 博士課程を終えた新進気鋭の物理学者である著者は世界に冠たるカリフォルニア工科大学=カルテクに研究室を得た。隣室にマレー・ゲル=マン、同じ竝びにファインマンという超大物が居て筆者は萎縮する。ファインマンが末期癌の大手術を経て職場へ復帰して来た処から、若者と老大との交流が始まる。期待された若者はしかし後に物理学界を逸れ、更なる波乱の人~~生を歩むことになるのだが。<BR> カルテクの物理学科という狭い世界に登場する人物・生き方は多彩で、筆者とマリファナを吸う仲のゴミ収集作業員をファインマンに紹介する羽目になるが、どうやら二人は意気投合したらしいという話まである。<BR>~~<BR> ファインマンは人をギリシャ人型とバビロニア人型に分け、自分をバビロニア人型だと考えていた。マレー・ゲル=マンは典型的ギリシャ人型・・・<BR>~~<BR> 岩波書店から『ファインマン物理学』が出て久しい。物理学に限らず科学に携わろうとする者の多くがお世話になったであろう。この斯界の超大物ファインマンのことを「ファイマン」と呼ぶ者が日本の物理学界の中に少なからず居る。某超ひも理論解説書の中にもファイマン図・ファイマンと頻りに出て来る。ファインマンの綴りはFeynmanと少し変わっているから殊更~~注意深く無くても人目を引く。シミュレーションを「シュミレーション」と書いて論文誌に投稿して来る者さえ居る。ギリシャ人型マレー・ゲル=マンならこういう恥知らず共を文盲と呼ぶかも知れない。些か言い難いことだが本書の中に『シュミレート』という言葉が出て来る。訳者はロシア語が専門らしい。ロシア語のこの言葉はシュミレートに近いのかも知れない。~~ともあれたとえ訳者が文盲であろうとも、それが本書の価値を減じるものではない。~
私は個人的にファインマン先生を大変尊敬しているのですが、<BR>この本はあまり感心できませんでした。<BR>問題点としては、<BR>・訳が部分的にあまり感心できない<BR>・ファインマン先生の台詞が多く書かれていることは良いが、<BR> (著者の思い出の中で引用されているためか)文章の流れが<BR> ちぐはぐな感じがする<P>・全体的に著者の青春記といった印象を受けるが、それから琴<BR> 線に触れるものは特になかった<BR>などです。<BR>本書より、ファインマン自身による「ご冗談でしょう、ファイ<BR>ンマンさん」を強くお勧めします。
どんな偉人も晩年は寂しいものだ。栄光は既に歴史となり、崇拝はされても注目はされない。その状況で偉人はどのように人生を完結するか。そのことから我々が学ぶことは多い。<P>アインシュタインが量子論に対してかたくなであったと同様に、ファインマンはひも理論をなかなか受け入れようとしなかった。彼が物理学において確立した自由で個性的な美学は、最後に彼を縛ってしまったのか。<P>ファインマンは、学問に悩む若者に最後の問題を出す:「原子を顕微鏡で見るとする。どんどん拡大して、だんだん像がはっきりしてくる。そこで、君はわくわくするか? 自分に問い、自分に答えよ。」栄光は結果であり、努力や苦戦は過程であり、まず自分が楽しむことを出発点にしなければならないというメッセージなのだろうか。<P>ファインマンは、自分の人生を総括し、青春時代の恋人との出会いと結婚生活が最上の幸福であり、それで十分だったと述べる。彼女と死別して以降に、物理学者・科学者として至上の発見と栄光を得たにもかかわらず。<P>陳腐な言い方になってしまうが、世の中に、ここまで自分に正直に生きたロマンチストがいたということは、驚きであり、爽快である。