究極の問題作。著者は一体、どういうつもりで書いたんだろう…。
この本はなぜ受けたのか?<BR>ひとつは興味本位からだろうが、他の危ないハウツー本にない点があったことがこの本のぬきんでている点だと思う。<BR>つまり、「生きる」ということがどういうことか不確実になり、生と死の境界線があいまいになったわれわれの時代を映してしまった点だ。<P>この本は自殺の方法を説いているけれど、自殺を勧めているわけではないし、逆に生きることはすばらしいと説いているわけではない。<BR>不安な時代を映す鏡ではあっても、なにを読み取るかはあなた次第なのだ。
鶴見は、“いつでも死ねる安心感”という意味あいで「自殺」というタブーの是非に疑問を叩きつけた。事実、その疑問は我々にとって、とてつもなく新鮮だった。もっと言えば、それは我々がまさしく必死でしがみついた命綱だった。確かに、鶴見の提唱する“非常口の作り方”は一部の人間の生きることをラクにしただろう。<P> 自殺マニュアル発刊から10年。しかし我々は、もう非常口作りに飽きてしまった。日常/非日常という概念をいくら自分でアタマの中にねじ込んでも、まったく同じ世界でしかないことに気づいた。だから非常口はもういらない。鶴見は、後の『檻の中のダンス』でアタマからカラダへ意識の転向を叫び、優越感を捨てることに拘っている。でも、今やそれら全て十把一絡げ、一緒のものでいいじゃないか。優越感も劣等感も踊る快感でもなんでも、自分の持った貴重な体験の中の一つなのだから。<P> しかし、このエポックメイキングは、確かに並ではない。近代成熟化社会における絶望を見越して光を見るための、一つの通過儀礼としての“必読本”であることには、いまだ変わりない。