この本を大学の理科教育法ですすめられ読んで、全国の子どもたちがタイトルのように学びから逃走しているのだと思っていました。そしてそのような子どもたちをどのように学びに向き合わせるかを考えてきました。いま教育現場に立つことができました。今いる田舎の高校ではまじめで必死に勉強しています。なので私自身、少しこの本を信じすぎてしまったことに反省しています。教育は地域によってもちがいます。本の世界よりも実際に学校現場にいってみて感じることが大事だと思いました。
「教育」は誰にとっても無関係でないだけに社会において関心が高く、また現在教育改革が進められていることもあり、これからの教育について広く議論がなされている。そんな中、本書は教育危機の実態として子どもたちの「学び」からの逃走を取り上げ、社会に波紋を広げた。<P>著者は「学び」からの逃走という実態を、「東アジア型教育の破綻」と社会に広がる「ニヒリズム・シニシズム」といった視点から考察してゆく。また、「勉強」と「学び」の違いを丁寧に規定し、これから求められる「学び」について主張している。問題提起をするだけでなく、現在の危機的状況を乗り越えていくための方途についても言及しており、私たち一人ひとりがこの提言をどう捉えていくかが重要であると思う。<P>本書は21世紀における教育のあり方を展望していくうえで、非常に示唆的な一書である。
私たちがマスコミを通して耳にする教育の問題は、「いじめ」「学級崩壊」「不登校」「少年犯罪」などセンセーショナルなものが多い。しかし著者は、最も深刻な問題は子供たちの「『学び』からの逃走」であるという。統計が示す勉強時間の著しい低下や、活字離れの傾向がとても不気味に映る。<P> 著者は、そもそも私たちの「勉強」という概念自体に問題があるとし、詰め込み・大量生産型の「東アジア型教育の終焉」を訴える。日本の教育認識は全く時代遅れになってしまったというのである。これからは、「勉強」ではなく「学び」の発想が必要であるというのが本書のポイントである。<P> さらに著者は、子供たちのニヒリズムやシニシズムを危惧する。物事に関心がないから問題意識が生まれず、「学び」の!!機がない。それはおそらく、日本の学校では個人レベルの「勉強」が主体で、他者と話し合ったり、協力して何かを作り上げる「共同的な学び」をあまり経験できないことと関係がある。子供たちの「『学び』からの逃走」やニヒリズムは、依然としてそういう「古い」教育を押し付ける大人たちへの抗議と捉えることもできるのではないか。