過熱する学力低下論について、それを主張する立場と使用しているデータの信頼性を考慮することにより、いま起きている学力低下の実態を明らかにしている。それによると現在論じられている学力低下は、『学習内容の到達度の低下』ではなく『カリキュラム内容の低下』に原因がある。<P> 本来、小中学校教育、高等教育、大学教育は、国を支える人材を育成するために行われるものである。国の政策を策定し実行するのは人である。家庭教育が子供の人格形成に及ぼす影響の大きさから、国家は家庭でつくられると言う人がいるくらい人材育成、つまり教育は重要である。<P> これからのポスト産業社会(知識社会)では、先進国において教育に求められるのは基礎学力の徹底だけではない。知識の創造と交流が行われる知識社会は、基礎学力しか無い人材は仕事にもありつけない社会なのである。 <P> 例えば、今は人材不足であるIT技術者であっても、日印IT協力推進計画(2000年8月森首相が訪印し表明)に基づき、インドIT技術者の受け入れが拡大しているのが実態である。高度な専門技術者であっても単純作業の仕事は減っていくことを示している。<P> 知識社会においては、『子供を創造的で探究的な学び手として育てること』が一番必要なことである。著者は、そのための授業、学びのカリキュラムとして、協同学習を実践するプロジェクトからなるカリキュラムを提案している。これについては、「習熟度別指導の何が問題か」で、詳しく述べられているので参照されると良いと思う。<P> 基礎学力は全ての学習の基本になるものであるが、これだけに注目した議論は不十分である。ポスト蚕業社会で求められる人材に子供達を育てるためにどんな教育が必要なのか?その教育のカリキュラムの中で基礎学力の修得をどうやるのか?という視点での議論が必要であろう。このような議論から導かれた方策は、基礎学力の徹底だけに注目した議論から導きだされた方策とは異なっていると思う。<BR> この本は、その問いに一つの答えを提供するものである。
「基礎学力」は、「考える力」を身につけ、様々なことを「学び」、多様な個性を伸ばすための土台となるものでしょう。「基礎学力」の重要性を主張している人達も、「基礎」だけ教えれば良いなどとは言っていないので、そこのところは間違えないようにしましょう。
本書において著者は、「学力」の定義を問い直しつつ、「基礎学力の徹底」「習熟度別指導」などに疑問を投げかける。「学力神話」にもとづく従来の教育観念から抜け出ることのできない、的外れで時代錯誤的な日本の対応全般を批判している。<P> とくに、「読み・書き・計算」を重視する復古的な「基礎学力」教育は、先進国には不向きであることを、イギリスやアメリカの実例を交えて警告する。ブルーカラーの求人が急速に減少するポスト産業化社会においては、「基礎学力」は必ずしも職を保証するものではない。「基礎」しか教えないことは、逆に若年失業者や棄民の増加を招くという。<P> 「習熟度別指導」には確かに問題がありそうだが、これは実力主義や能力主義の否定と混同されてはならないだろう。!!様な才能を伸ばすために、得意分野を支援するシステム作りは是非必要だ。アメリカの高校には、理系専門のほか、芸術専門の学校もあるという。カウンセリングの専門家も身近にいる。子どもが持つ個別の「学び」の欲求を見出し、受け入れる能力もまた、日本のシステムに欠けているものだ。<P> 同じく佐藤氏による『「学び」から逃走する子どもたち』(岩波ブックレット)とデータや主張がかなり重複する。しかし、「学力低下」論争を受けて「学力」の定義を見直し、具体的な教育政策批判に踏み込んでいる点で、前著とは異なった側面からの議論となっている。