道徳的であることがあなたをあなたの生から遠ざける<BR>何者かによって課された正義は果たしてあなたにとって必要か?<BR>あなた自身の内面から生じる正義ではなくて<BR>あなたではない何者かの正義に身をゆだねることが<BR>果たして生きているといえるのか?<BR>あなたはまずあなたの正義を生きねばならない<BR>そうすることによってこそ生の輝きを垣間見ることが出来るのだから
僕は研究者ではありません。ニーチェを「勝手読み」する一学生です。<P> 恐らく、ニーチェで最も有名な本といえば『ツァラトゥストラ』になるんだろうと思います。しかし、友人たちにその感想を聞くと反応は二様に分かれると思います。<BR>1.「読みきったがわからなかった」<BR>2.「読みきらずに挫折した」<BR>何を隠そう僕自身も、これと同様の感想です。<P> しかし、この本は「何となくわかった気」になって、「最後まで」読み進めることが出来ました。特に第1章は好きです。道徳の起源について「よいと悪い」について、論ぜられています。ユダヤ教の成立過程など、印象的な議論が読後かなりの時間がたっても忘れられません。「弱者」がどのようにして「宗教」を造るかが「よくわかった気に」なりました。<P> 「神は死んだ」という命題とともに開始される『ツァラトゥストラ』を読むにあたって、ニーチェは宗教について何を考えたか、何が「神」を殺したのか、『道徳の系譜』においてはよりわかりやすく議論されていると思います。
第一章では、善と悪の概念と、良いと悪いの概念は全く違うという事、<BR>第二章では、道徳に用いられる「良心」は、よい者ではない事。<BR>第三章では、哲学者と僧職者の禁欲主義は全く違うという事。<BR>こう言った事柄をとことん追及しています。<BR>道徳と言う者は、完全な一つの洗練されつくした道徳など無く、<P>有るのは個人個人が好き勝手に、創り上げた欲望に過ぎない。<BR>つまり、現在の道徳が最高の道徳である事はありえない。<BR>必要な言葉はいつも有害に聞こえるという事。<BR>これは、今現在の日本人にとって切実な問題ではないでしょうか?<BR>高貴な日本人に生まれた苦しさに、貴方は気づいていますか?<BR>苦痛に対する感受性の高さは、その個人の才能に比例しています。<BR>今、日本人にとってニーチェはあまりにも必要な道徳なのでは<BR>ないでしょうか?試しに、ニーチェの言う、高貴な人間とこれまでの<BR>日本人を比較して見てください。