ウェーバーの主著。一貫した論理で着実に、そして慎重に論を進めていくところが印象に残っている。<P>この本が読みづらいのは、内容的な重要度と、紙面の割合が著しくずれているからである。つまり、重要な箇所が長く、または強調され、相対的な重要度が劣るところが簡潔に書かれている、というわけではないからである。時に些細なことに長く議論を割き、読者は導かれるままいつの間にか本論を忘れてしまう。かと思うと注に重要なことが書いてあったりする。<P>まず本書の前半のすべてが問題提起の部分であり、なにも論証されていないことを忘れてはならない。そこでは、「資本主義の精神」とウェーバーが呼ぶものの内容をつかみ、ウェーバーの時代の状況と、ルターの議論のウェーバーの観点からする不完全性を確認すればよい。二部ではルターとの比較からカルヴァンの予定説の徹底性を理解が求められるが、その他の諸宗派についてははっきり言って注で書いてもらえばよかった。<BR>最後にカルヴァンの予定説がその後のカルヴィニズムの運動の中でどのように変容し、それがいかに資本主義発達の契機となったかを理解する。<P>ウェーバーは多くの著作を残し、その関心が多岐にわたっているような印象を受けるが、その問題意識は一貫しているといってよい。他の著作を理解するにも、この主著の内容理解とウェーバーの問題関心をつかんでおくことが肝要だろう。
標題の指摘をしていたのは、今はジョンズホプキンス大学で教師をしているフランシス・フクヤマ氏がNYタイムズの読書欄に書いたエッセイで知らされた。<P>ドイツ思想史のつもりで学生時代に読み、アメリカ論であったので二度びっくり。だがしかし、ヨーロッパ思想の源流としての中世キリスト教を踏まえた宗教と資本主義の関係分析には目から鱗だった!あれから何年経ったのか?<P>名著は何時までも名著です。
一般にヴェーバーの主著と言われる本(実際は膨大な宗教社会学研究の一環)。論争の中で膨大な注を付された。西欧近代合理主義の一つの現れとしての近代資本主義の成立という、複雑な要因の絡んだ一回性の史実を、禁欲的プロテスタンティズムによる都市民の営業への合理的性格の付与という一つの観点から論じたもので、禁欲的プロテスタンティズムの神学と近代資本主義経済の選択的親和性についての議論を喚起した。中世の修道院内の世俗外的禁欲を、ルターは天職観によって世俗内に持ち込み、世俗の仕事を聖化した。その流れを強化したのがカルヴァン派で、救いの確信を得るための唯一の手段として、無駄の無い資金と時間の運用により、一心不乱に天職に打ち込むべきことを説いた。やがて蓄積された金の魔力により禁欲的な倫理は後退すると、世俗化し目的を喪失した資本主義の「精神」が残された。ヴェーバーはこうしたカルヴァン派の運命を念頭に置きながら、それと親和的関係にある資本主義経済の行方についても予測しようとする。資本主義経済は今や目的意識の無い専門人や享楽的な人々によって自動的に回転する、逃れられない「鉄の檻」と化し、官僚制化する。今後我々には、この「終わり無き日常」を生きるか、或いは伝統的宗教に回帰して復古的な目的意識を持つか、或いは全く新たな理念を提示するカリスマ(全体主義?)を待望するか、のいずれかの道しかないのではないか。これが本書の近代批判である。宗教の意義をどれだけ重く見るか(経済に適合した特定の神学的側面を遡及的・選択的に強調することの是非)、資本主義経済を個人の思考から分析することの是非(世界システム論)、日常分析の弱さ、挙げられた事例の是非等の批判はあるが、興味深い本ではある。なお、予定説については、E.H.パーマー『カルヴィニズムの五特質』(つのぶえ社、1987年改訂)が分かりやすい。<BR>