社会のルールや掟を守ること、即ち適法的行為と善は同義ではなく、道徳的格律に従って善意志を実行することが真の道徳であるというのが、カントの考えた道徳論の核心である。しかしながら、人間は文化という人為的体系を有するがゆえに、世俗的な善の実行が即ち道徳であるというような転倒を行ってしまう。カント哲学における道徳的生き方とは、存在と当否の絶え間ない葛藤の中にこそあるのであって、それを自覚せず単に他律的に行動する者は、道徳的悪を実践するものである。これは誠に重要なテーマで、古今東西の文学はまさにこのテーマを巡って生み出されてきたと言っても過言ではない。保守的道徳論者はカントのつめの垢でも煎じて飲めと言いたい。価値の転倒すら含むこのような思想は、「危険思想」のレッテルすら貼られかねないが、ある意味当たり前のことであり、中学生や高校生が、このようなテーマで討論をしたりすることは重要だと思う。これに基づいた討論用のワークシートみたいなのが欲しい。
(;´Д`)ハァハァ この書物は悪について述べているが、概要はカントにおける倫理学の入門書である。<BR>カント倫理学をやさしく解説しておられる。<P>『自己愛』や『エゴイズム』から人間の本質をえぐりだす彼の論旨は明確かつ分かりやすい。<BR>要するに、カントは、人間がいかに自己愛=エゴイズムに支配され、抜け切れず、もがいて生きていかなければならないか、人間の生の感情を<BR>理解しやうとしていたのかが伝わってくる。<P>人間は結局のところ、自己愛=エゴイズムを推し進めているだけである。だがそれをうまくごまかしている。その 『ごまかし』にこそ悪辣さがある。<BR>筆者はカント哲学を通して そう言っている。
いい本だ。私はヤクザのもつ社会創造的側面に注目し、学会発表をしているが、いつも考えているのが本書の主題である「悪」の概念である。詳細は論文発表後にするが、一般的な「悪」とは法の外にあり、同時に道徳の外にある行為であろう。しかし、著者の援用するカントは法の外で道徳の外の存在者については何も言ってないらしい。通常、もっとも善良(=法の内かつ道徳の内)な市民こそ悪であるという。それは自己愛に基づく行為であるからだという。かりにそうでなくとも自己愛に帰結する行為は悪だという。極めて厳しい基準である。著者は日常の断片から徐々に核心に近づく。その思考の運動に従っているうちに善良なる市民というのが極めて悪に満ちた存在と思われてくる。それは民主主義という制度の危うさへ警鐘を鳴らす。哲学者カントと哲学者中島義道の饗宴は哲学が常に根拠を問い続ける営みであり、そこにおいてのみ悪を超える可能性があることを示す。哲学者の、あるいは哲学するという行為の凄さを痛感させてくれ、思考する意味の再考を迫る1冊である。