第二次世界大戦下、アウシュヴィッツを体験したユダヤ系イタリア人、プリーモ・レーヴィ。その彼がアウシュヴィッツ生還から約40年後、自殺の前年に書いた最後の作品が、この『溺れるものと救われるもの』です。その中ではすさまじいまでの自己省察とともに、アウシュヴィッツとは何であったかが改めて問い直されています。中でも、加害と被害の関係が極めて曖昧な「灰色の領域」、生還したものが感じる「恥辱」、我々が陥りやすい「ステレオタイプ」的思考がもつ恐ろしさについて提起され、考察されている章などは、この本の中でも、そして他のアウシュヴィッツ経験者の作品などと比べても、きわめてユニークかつ、読者自身が現代を生きる上で考えねばならない多くの課題を含んでいるといえるのではないでしょうか。レーヴィといえば『アウシュヴィッツは終わらない』や映画にもなった『休戦』が有名ですが、アウシュヴィッツから約40年間、証言者としての道を歩み続けたレーヴィが一体何に苦しんでいたのか、一体何を危惧していたのかが語られている点で、この本は非人間的状況から人間性を回復したことによって新たに生まれる苦しみや、月日がたつことによって生まれる不安などに関して、他の作品と比べるとより多くの言及がなされており、レーヴィ作品の中でもとりわけ多くの人に読んでもらいたいと思う本でした。
この世の地獄 としか言いようのないアウシュビッツから生還し得た、幸運な著者。そうした自分の思い込みに気付かされ、打ちのめされた。生きて帰れた彼らは自由を取り戻し解放されたのではなかったのか・・あまりに悲惨な光景が脳裏に焼きつき、助けられなかった人々への罪悪感に苦しみ(彼らのせいでないのに!)なんとか苦痛と戦い続けた著者すら自殺してしまう。ナチスの残虐のなんと執拗な悪魔性。けれど著者は何度となく繰り返す。理解しようとしない人々、聞こうとさえしてくれない人々への絶望を。<BR> 読むのが苦しくつらい時間であった。それでもやはり真剣に耳を傾け,想像してみることが犠牲者への最低限の礼節だと思った。
筆者はドイツ語を知らなかった。ただそれだけの理由で、アウシュヴィッツでは「言語」を持たない動物として扱われ、家畜のように殴る蹴るあるいは鞭うたれて命令に従わされた。相手には理解しようという意志がまったくなかった。<BR> 私はこれほどまでに徹底的な意志疎通の不在の状況に置かれたことがない。これだけで、私には何も言う資格がないと思う。<P> 想像力というものがある。だからある程度推し量ることはできる。だが、ここまで極端な状況になると、想像もおよばない。<P> 私はここまでのおそろしさと絶望を経験したことがない。私の想像のよすがとなるのは、私が私の人生においてこれまでに感じたおそろしさであり絶望である。わたしの想像が果たしてレーヴィの体験に達しえているかとなると、とてものこと、そうではあるまい。レーヴィのそれが、私のそれなどとは比較にもなにもならないおそろしさであり絶望であることは確かで、そこまではわかる。しかし、そこまでである。<BR> つまり私には真にはわからないのだ。<BR> レーヴィの経験がわからない以上、私にはそこから発する彼の意見がもつ深刻さもまた、本当にはわからないだろう。