ヒトラーが自身の人生と民族の正義・歴史(魂)を力強く語った作品。<BR>国家社会主義が崩れ、社会主義が崩れ、正義の資本主義が生き残った。<BR>本当だろうか。国家社会主義はフロイトのいう理性(超自我)に根付い<BR>た倫理的・道徳的なものである。すべてのユダヤ的エゴイズム・本能<BR>の暴走を廃す。社会主義は内破した。資本主義も内破、もしくは魂(<BR>歴史の重みを持つ善悪基準)をテクノロジーと核により抑えつつ独裁を<BR>続けていくだけであろう。国家社会主義は軍事に敗れたのであって魂に<BR>敗れたのではない。事実、当時ナチズムは近代主義国家すべてにおいて<BR>跋扈した。国民の魂に基づく熱狂的な支持がナチズムを育てたのである<BR>。ただ熱狂なかでたまたま政権を取ったのがドイツ・イタリア・スペイン、<BR>そして日本であっただけのことである。ナチズムはユダヤ的近代主<BR>義の必然である。当時、天才と呼ばれた文学者、哲学者、法学者、経済<BR>学者、法学者、医学者の錚々たるメンバー(マルティン・ハイデガーや<BR>カール・シュミットなど)がナチズムに賛同したのもうなづける。<BR>ここに真理がある。現代はただ封じ込まれているだけである。<BR>ただ中東の勇者だけが戦っている。それだけで終わるはずはない。<P>歴史は再び動き出す。
ヒトラー主義そしてナチズムの聖典と言われる『わが闘争』。<BR>しかしその内容は複雑な側面を沢山覗かせている。ヒトラー自身<BR>の屈折したコンプレックスの塊かと思えば、優れた政治的洞察を<BR>開示したり、また凶暴かつ獰猛な攻撃性や論理で読者を惑わせる<BR>事などお手の物である。誇大妄想の産物にしては真実が多過ぎる<BR>し、単なる狂人であれば支離滅裂な所が少な過ぎる。ヒトラーは<BR>必死になって「国家社会主義運動」という仮面で自身の劣等感を<BR>覆い隠したが、その仮面で矮小な自己を非常に大きく演出する事に<BR>ずば抜けて卓越した才能を発揮したと思う。アーリア人だけが<BR>文化創造者だった訳では決してないのだが、彼はそれを信じ切って<BR>いた(もしくは完璧に信じてるふりをした)。また自分の中で<BR>理論家、指導者、組織者の三位一体が成し遂げられたと思った。<BR>これこそ自分の「偉人」たる証だと。ヒトラーが言ったとされる<BR>「ウソは大きければ大きいほど良い」というのは、正確には大衆は<BR>彼らの愚鈍さからして、「小さいウソよりも大きなウソの犠牲になり<BR>やすい」の意訳だ。実際ヒトラーの説明は現実的で正鵠を得ている。<BR>他にも売春制度に悩む議論はヒトラー的社会評論と言えるものだ。<BR>宣伝の政治力や反ユダヤ・マルクス主義、指導者の最終責任論など<BR>誤謬のみとは断定できない面もあって政治哲学者ヒトラーの危険な<BR>誘惑が読者を待ち構えている。某超大国の単独行動主義の論理が<BR>実は既にヒトラーの頭の中で完成していた所などなんとも恐ろしい。<BR>我々は民主主義の敵を知るために、本書を必読書として読破すべきだ。
ヒトラーは天才であった。勿論善い意味ではなく。<BR>突飛な理論(※理論、とは到底呼べない)や多岐に渡る誇張(※個人的な話について)満載なのにも関わらず、<BR>当時、あれだけの多くの人間を支配した思想であることには変わりない。<BR>私は今、ヒトラーを「悪」という先入観を持って読んでいた為、その通りと賛同することは全く無いけれども、<P>当時のドイツ国民が彼の思想に染まってしまったのも、むべなるかな、という気持ちです。<BR>不謹慎ですが、ヒトラーの誇張などは後ろの語句注で解説されているものですぐ判るのですが、<BR>都合の悪い事を隠したり(些細ですが)するトコロなんかはちょっと可笑しかったです。