この本を、どんな風に読まれますか?。<BR>記号論?、チベット仏教ニンマ派?・・・・僕は、高校生の頃に初めて読んだ記憶がありますが、間違いなく『ファンタジー』として受け取ったと、今振り返ると思います。<P>そして、ニューアカデミズムの旗手として登場した時も、そのような文脈で読まれたんではないかな、と思います。時は、バブルの80年代からシステムから抜け出せないシステムの奴隷としての社会を描く90年代にかけて、「この世界のどこにも出口がなくて空転する閉塞感」に苛まされているころ、ニンマ派の神秘体験は、この社会に「外部」があるのではないか、「ここではないどこか」にもしかしたらいけるのではなか、という印象を抱かせるものでした。多くの若者が新興宗教に走ったのもこの頃です。僕はもともとSFやファンタジーが死ぬほど好きなので、いま考えると同じ読み方をしていた気がします(笑)。<P>そう考えると、広告としてマーケティングとしては、最高の著作であったと思います。売れたしなぁ、これ。僕は中沢先生のペテン師のような<BR>知の多様性を提供できる能力には、すごいなぁと口をあけるばかりです。またネーミングセンスが、いいですよねぇ。
著者は日本人で始めてチベット密教ニンマ派の教義を一通り体験した。そこで見たものは、フランス現代思想と密接に繋がる極めて現代的な課題であった。これが主要な内容だ。読めばわかる。但し中沢の読者は頭が弱いバカが多く、それ以上発展しないのが特徴だ。<P>吉本隆明解説によると、歴史以前の精神のありかたを内在的に捉えようとして中沢はチベット密教をやり続けていることになる。だが「やればわかる」世界を、言葉で表現したものを読む側がどう捉えるのか。実際に密教に走るのではなく一読者として中沢を内在的に読み込める者がいるかどうかは疑問だ。私の知る限り一人もいない。<P>先のチベットのモーツアルト解説からは、原型の表象の一つのあり方としてのチベット密教の身体論に触れているが、逆に最後の親鸞中沢解説には、どうも吉本の親鸞論そのものの図式、方法から原型を取り出して行こうとしているように見える。これはどう考えたら良いのであろうか。
彼はチベット密教のニンマ派の修行をしたその道のそれなりのグルである。チベット密教は様々なイコン・イメージを持つが、そこにおける記号に対する身体感覚をフランスを中心とした記号論(ソレルス、クリステヴァ、デリダ)へと結びつけたのが彼の功績である。そこに彼固有のクオリア・性感帯があるように思われる。<P>一方チベット密教の根源的な生のイメージとして純粋なる生の生成の流出があるようだが、彼はそうした生成する生の流体のイメージをモースの贈与論やマルクスの資本概念へと結びつけている。こちらはそんなに良いものとは思えない。というのも彼はこれをドゥルーズが誤った形でニーチェから継承したのと類似の強度概念へと結びつけてしまい、終いにはレーニンに現前する妖怪的な生態へと硊び付けてしまった。ここは人間ではなく、ある種の暗い軟体生物が上位に置かれる邪教の圏域である。