身勝手なサクセス・ストーリーに猛進する日本男児と、それに振り回されたアメリカ人女性との間に生を受け、日本という閉鎖的な社会で徹底的にはじかれ、10代前半にして一人で外国へと旅立ち、不安と孤独を当然とするような形で成長し、20代前半にしてすでに美術界にて「ミケランジェロの再来」という評価を得たイサム・ノグチの生涯は、派手であると同時に実に単調だ。この本を読む限り、生涯を通して彼には女と表現しかない。普通の人が当たり前に持っているもの(友達とか、懐かしむべき思い出とか、故郷とか)、そいった微笑ましい記憶を彼はほとんど持ち合わせていない。逆にに普通の人には持ち得ない特殊な環境を自由自在に謳歌しているともいえる。若い頃から世界中を旅し、各界の著名人や表現者たちと交友し(北大路魯山人カッケぇ…)、またすこぶる美女に愛される。 <P>しかし彼にはそれしかない。まるで表現するためだけに生まれてきた人間のようだ。安易な恋愛観と陳腐な自己演出に没頭し、つねに美術史上において自分がしめる位置に気をもみ、あとは自分以外の人間に対する強い不信をいつもかかえていたようだ。読みながら終始「可哀相だなぁ…」と思った。少なくとも才人特有の華やかさや、人間としての大きさははまるで感じられない。つねに彼は癇癪をおこしているか、不安に苛まれているかのどっちかだ。しかしそれはあくまでもこの本を読んで感じるイサム・ノグチへの感想で、本当は彼の人生にももっと楽しさや明るさもあったのかもしれない(そう、信じたい)。<P>著者は膨大な情報量でイサム・ノグチの人生を展開していくが、どことなく情報内容が片寄っているかに思われた。たぶん著者がイサム・ノグチの一面性にばかり焦点を絞って話をしているからであろう。また著者は「イサム・ノグチを分かってあげてほしい」とする反面で、「そんなに簡単にイサム・ノグチを理解させない」的に、読者を突き放す。そしてその方法論が一見イサム・ノグチを「孤高の才人」へと美しく昇華している反面、最終的には読者の奥にまで強烈に迫り得ない理由でもある。 <P>「この人はいったい何を思い悩みながらこういった作品ばかりを創り続けたのであろうか?」とイサム・ノグチ作品には終始疑問が付きまとうが、この本を読んでその謎に少し理解が開けた感がした。イサム・ノグチの一つ一つの作品を年代順に追いながら、それぞれを制作した際のイサム・ノグチのコメントや当時の彼をとりまく状況、そしてそれをそれぞれの言葉で評した批評家や他の芸術家たちの言葉をこれほどキメ細かく拾いあげた辺りは、これはスゴイ業績だと思う。とくに、最後の方のイサム・ノグチが唯一認めた美術評論家キャサリン・クーの批評と、それを正当な判断としながら、あえてその裏をかこうとするイサム・ノグチとの無言の心理戦なぞは、この上なくCoolであった。 <P>イサムは死の直前最後の恋人京子をともなって美術館にいき、アンリ・ルソーの「蛇使いの女」を眺めながら日曜画家で、税関に勤めていたような男が、中傷やあざけりに絶えながら、これほど素晴らしい絵を描くなんて…と、素直に表現者としての感動を示す箇所などは、深みと優しさに満ち溢れています。世界中の美術家たちのそれぞれに、こういった人間模様がそれぞれの形で存在しているのだと思うと、連中のスゴ味を感じざるえません。
<上>に続いてイサムノグチの晩年を記した下巻だが、やはり人間としての素材への敬意を欠いた印象はそのままである。殊に、イサムノグチに晩年助力を惜しまなかった人間を「仮性遺族」などという表現を使っているのは、いかがなものか。もし自分が血縁関係にない者に傾注し、助力したのが長年に渡った末に死別したとき、「あなたは仮性遺族ですね」と言われたらどう思うか。非常に気をそぐ表現で、この一語だけでかなり残念な出来となった。上巻を読んだ以上読み進める必要があるがゆえに読んだが、作者の「優等生的」ルポルタージュには鼻白む思いだ。
詳細な取材に基づいて、世界的な彫刻家イサム・ノグチの後半生を描いた作品ですが、どうしてもイサム・ノグチの仕事を追う描写が多く、その内面はあまり描かれていないように思います。文章も決して読みやすいものではありません。ただ、それでもこの本からはイサム・ノグチの猛烈な仕事に賭ける情熱が伝わってきます。とっても真似できる生き方ではないと、彼のスケールの大きさを感じました。また、自分の仕事にこんなに打ち込めるなんて、うらやましいという気もします。今年はイサム・ノグチの遺作「モエレ沼公園」も完成します。生誕100年でもあります。興味のある方は読んでみる価値はあると思います。ちょっと長いですが・・・。