多くの人に読まれて欲しい労作であるという前提に立って、私なりの疑問点を述べる。<BR> もし渡邉恒雄が読売社長になれなかったとして、では誰ならよかったのか? 本書の登場人物から選べと言われたら、判断に困るのではないか? 著者は大坂読売社会部長だった黒田清をナベツネ的なものと対置しているように思えるが、黒田を戴く巨大メディアというのも想像しにくい。そもそも著者は、渡邉批判の都合から読売社会部を美化し過ぎていないか?<BR> 著者は本田靖春の「務台は販売の神様、渡邉は政界の人間で、ジャーナリストではない。だから読売でジャーナリストであろうとすると必ず上とぶつかる」という言葉を引用する(p289)。しかし私の考えでは、ジャーナリズムの「良心」とか「本道」を振りかざした批判は、不徹底なものだ。近代ジャーナリズムの歴史を振り返れば、むしろ務台・渡邉的なものこそジャーナリズムの本性であることが分かる。明治期の政論新聞は渡邉的な人間たちの巣窟だった。<BR> 私はシステムの優位を言い立てて個を免罪しようというつもりはない。しかし問題はやはり、読売が巨大だという、その事実にある。渡邉的な人間そのものは、どこにもいる。<BR> ただし、文庫版巻末に収められた著者と玉木正之の対談で、巨人の凋落やJリーグ人気に「渡邉的なもの」の機能不全を指摘していたのは興味深かった。私はそこに、旧来型メディアの行きづまりを見る。もっとも、ネット社会もパラダイスではないわけだが…<BR> 最後にもう1点。解説で佐野眞一が渡邉を「東大でカントに傾倒し、ニーチェを熟読したエリート中のエリート」と形容している(p481)が、東京高校から東大文学部に進学するのはエリートコースとは言えまい。魚住の記述も文学部進学の経緯を掘り下げていないが、私はそこにも渡邉のコンプレックスの源があるのだろうと推測する。
“ナベツネ”の存在は昨年の一連のプロ野球騒動でクローズアップされたが、そんなものは“ナベツネ”という人物像の何万分の1にも満たないってことが、この本を読むとわかる。“ナベツネ”なるものがマジで今の政治を、経済を、社会を動かしているのだ。この本がトンデモ本の類であれば上出来のエンターテインメントだし、戦国時代の武将を描いたものならかなり使える処世訓と言える。しかし、この本の舞台が現代の日本であり、内容が超リアルであり、読んでる僕にも密接に関わりのあることだとしたら、これは「暗黒の書」といえるだろう。面白くて一気に読めてしまうのに、その読後感はサイアクである。<BR> ブンヤと言えば昔は社会派、反権力ってイメージであり、実際にこの本の中にも、そうしたブンヤも出てくる。しかし、いまやマスコミこそが権力なのだ。番記者から派閥のドンに取り入り、果ては一国の首相を選ぶまでになる。出世のために子分を作る、同僚を飛ばす、上司を嵌める。私腹や自社の利益のためにキャンペーンを張る、記事を潰す。冒頭にマキャベリの「君主論」が掲げられているが、ナベツネほど忠実に「君主論」を実践した人物は居ないだろう。とは言え、多かれ少なかれ世の権力者は“ナベツネ的”要素を持っているのである。<BR> この本を読むと、ホリエモンがなぜマスコミを手中に収めたがったのか、ナベツネがなぜホリエモン的アプローチを毛嫌いしたのかがわかる気がする。
権力志向の人間が、マスコミ権力を握るとどうなるのか。<BR>最近の渡邊氏の言動を見ればそれは明らかです。<BR>特にプロ野球に関する発言で確立された、権力者としてのイメージ。<BR>本書はそのイメージを更に確固たるものにしてくれます。<P>通常この手の人物伝を読むと、外見からは窺い知れない、<BR>隠れた一面というものを教えさせられることが多いのですが、<BR>本書には殆どそれを見出すことが出来ません。<BR>どこまで行ってもナベツネはナベツネなのです。<BR>恐るべしナベツネ!