無責任…<BR>この本を読んで浮かぶ言葉を一つだけ上げろといわれたら、これに尽きる。<P>インパールやガダルカナルといった酸鼻を極めた戦闘の敗北の理由にも、この言葉はあげられる。<P>しかし、先の大戦において、最大の無責任は何であったか。<BR>戦争を行うということに「なってしまった」ことだ。<P>総力戦研究所が行なったシミュレーションというのはこの物語における狂言回しと言ってしまっては言い過ぎだろうか。<BR>しかし、自分には、この本の中で重要なのは、開戦の決定がなされるまでの過程だと思えるのだ。<P>この過程における最大の罪は、戦争をするということにも、戦争を回避すると言うことにも、誰も意思決定をしようとしないことだ。<P>組織利益に汲々とし、戦争回避の手段も十分に講じず、そし!最後の最後は戦争遂行に不可欠な石油の備蓄量という帳尻併せの数字だけが一人歩きしていく…。<BR>誰も意思決定をしようとしない…そして、その意思決定をしないことによって責任を背負おうとしない…。<P>この本に描かれている「ドラマ」には、ノンフィクション・ライターとしての猪瀬氏の事実に対する解釈も含まれるであろう。<BR>しかしながら、国家の重大事における意思決定の欠如と中でアクターとなった人物たちの無責任ぶりを、十分に事実に立脚して描ききれていると思う。<P>今現在にも通じる問題を多々含んでおり、組織、戦争、政治に興味のある人は目を通しておくべき作品である。
官僚の失敗がその個々人の素質である問題であるかのようにいわれている時期があった。<BR>しかし、そういった指摘は必ずしも正しくないことを本書は示している。<P>猪瀬直樹による本ノンフィクションの主舞台は、<BR>昭和16年、東京は首相官邸裏にあった田舎の小学校を思わせる建物である。<BR>その名前を、総力戦研究所という。<P>研究所には、主に軍・官組織に所属する若いベスト・アンド・ブライテストが集められた。<BR>そして、出身組織から産業状況や軍事力に関する広範な重要なデータを集め、<BR>日米開戦を視野に入れた極めて科学的なシミュレーションを作り出す。<P>結果は、日本必敗。この結果は、東條以下近衛内閣の閣僚を前に報告された。<BR>その時、昭和16年8月27日。<BR>その後、およそ四ヶ月の間の間に迡?衛内閣は東條内閣に交代し、<BR>昭和16年12月8日に太平洋戦争の火蓋は切って落とされた。<BR>そして、敗戦…<P>集められていた者が優秀であったことはすでに述べたが、<BR>集められていない者もまた優秀であった。<BR>そして、判断するための数値は同じような数値であったはず。<BR>しかし、戦端は切られた。<P>そこにあったのは、組織の問題ことが、本書からは読み取れる。<BR>東條英機は模擬内閣と同認識をもっていたのではないか、という記述がある。<BR>東條はシミュレーションを否定しながらも青褪めていたというのだ。<BR>しかし、東條は「日本的意思決定システム」にからめとられていく。<P>この「日本的意思決定システム」の恐ろしさ。<BR>空気の支配ともいえようか?<BR>本書はその実態を過去の歴史を掘り返すことによって光を当てている。<BR>賢明な人間が、賢明な意思決定をしたとする。<BR>しかし、それはシステムによってスポイルされる場合がある。<BR>こうした一種の疎外作用が、組織の病巣を生み出し、<BR>官僚の問題を生んだとはいえないだろうか?<BR>T.T
30代は読めと書いてあったので読んでみた。日本が戦争にいたる過程が克明に記されており、東條首相が世間で言われているほど悪者ではないということがわかったけれども、「なぜ戦争をしたか」というタイトルから期待される答えはないようだ。おそらく、それは読者への宿題なのだろう。<P>日本にも優れた人はいっぱいいる。しかし、組織になると足の引っ張り合いをはじめる事が多いのはどういうわけだろう。ひょっとして我々は先の敗戦から何も学んでいないのではないか...この手の本を読んで、いろいろと思いをめぐらすたびに、現状にがっくりくるのは私だけではないだろう。何しろ、この現状を招いたのは我々の世代ではないのだから。<P>元気を出そう。来たるべき第二の敗戦に備えて。<BR>戦後の復興は我々の世代の肩にかかっているのだ。