ローマ人の歴史を主要人物中心に描いているシリーズ第11巻。前巻「インフラ」を扱った物とは違い、人物中心の歴史叙述に戻っている。マルクス・アウレリウス、続くコモドゥス帝、内乱時代、セヴェルス帝までを本書は扱っている。<P>帝政ローマ全盛期、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウス帝と通常賢帝と言われる人物が続いたのにも関わらず、何故この時期から衰退は始まったのか?。今回のサブタイトルは「終わりの始まり」。何時もながら現代を考える道具としても提供してくれているが、今回は特に現代日本人が興味を引かれるテーマであろう。また今巻も、著者の人物鑑定は人物学のテキストとしても使える。<BR>それにしても、著者の知識に触れるのは、年に一度の楽しみである。
前帝時代とはうってかわって,ドナウ川・ユーフラテス川の両防衛線で苦戦するローマ軍。平和すぎたアントニウス・ピウス帝時代は,ローマ軍から実戦能力を奪ってしまっていたのだ。軍事的才能に秀でているとは言えないものの,きまじめな性格から常に最前線で指示を下し続けるマルクス・アウレリウス。しかし,ドナウ川戦線の安定を確立する直前になって,彼の脆弱な肉体はついに限界をむかえる・・・。<BR>苦しい時代にあっても帝国のために奮闘する皇帝や将軍たちのスピリットは健在です。しかし,時代の流れはさらなる悪化へ。次巻はどうなってしまうのでしょうか。
ローマ人の物語11巻を大変面白く読みました。<BR>しかし、広告で明示されているように、マルクス・アウレリウス帝に「ローマによる平和」の終わりの始まりを見る論調には疑問を感じました。<BR>その論拠はマルクス・アウレリウス帝が即位前にイタリア本国を出ていないこと、マルクス・アウレリウス帝の時代に蛮族のドミノ倒しと言う現象が初めて<P>ローマを襲ったことにあるようです。<BR>確かに、現場に触れた方が良い情報が得られるでしょう。<BR>しかし、現場から距離を置いた方が冷静な判断ができるという効用があり、<BR>情報を総合・分析するには現場から距離を置いた方が良いでしょう。<P>また、マルクス・アウレリウス帝も即位後はドナウ防衛線という現場に張り付きましたし、マルクス・アウレリウス帝以後!!ローマ人が即位前のマルクス・アウレリウス帝を見習って皆、現場を軽視したという訳でもないでしょう。<BR>それに、蛮族のドミノ倒しと言う現象にマルクス・アウレリウス帝には責任が全くありません。<P>哲学者で外国に行ったことのない人物を排除するためにこのような物言いをしてるのではと疑いたくなります。<BR>そして、私は「ローマによる平和」の終わりをもたらしたのは蛮族のドミノ倒しと言う外的現象に加えて、<BR>内的な要因として「公共善を維持することに誇りを抱く誇り高き人々」が<BR>少なくなっていったことが原因と考えています。<P>10巻では「公共善を維持することに誇りを抱く誇り高き人々」がローマのインフラを支える姿が描かれていました。<BR>そして、なぜ、「公共善を維持することに誇りを抱く誇!!高き人々」が<BR>減少していったかと言えば、カラカラ帝がローマ市民権を帝国の全住民に与えたことと、キリスト教の普及が大きかったことでしょう。<P>ローマ市民権の全住民への開放はローマ市民権が軍団兵になる資格などと結びついていたことから分かるように、「公共善を維持することに誇りを抱く誇り高き人々」にとって、属州民ではないローマ市民であることは誇りでした。<BR>属州民である「公共善を維持することに誇りを抱く誇り高き人々」にとっては、ローマ市民権を得ることは目標でした。<P>その誇りであり、目標であるものをカラカラ帝は奪ったのです。<BR>そして、市民権を得るのに帝国の住民でありさえすればよいというのなら、<BR>蛮族は帝国内に移住さえすればローマ市民になって文明の恩恵と良い土地に!!む恩恵を受けられると考えて、蛮族の移動の誘因になります。<BR>キリスト教は、初期は特にですが、公共善の維持よりも隣人愛に重きを置きました。<P>国全体や遠くの人々のことも考えて公共善を維持することに誇りを抱く誇り高き人々」よりも隣人愛を実践する人が尊ばれるのです。<BR>そして、公共善について考えるよりも、神学論争に熱中する人々が多くなるのです。