西部はこの書でなにを伝えたかったのだろうか。 <P> 差別と貧困に苛まれた幼少期、少年期の体験が血の固まりのようにその生のコアを形成し、それでも逆境を知性をもって相対化しつつ、極道に身を置き、アンビバレッンツな自殺(自死と言う言葉は好まない)を敢行した友人の姿を通して、西部はなにを伝えたかったのだろう。 <P> 政治的に、思想的に日本の国は、諸外国、とりわけアメリカに蹂躙され、また、その蹂躙を心地よく受け入れている。根本においてはしたたかに蹂躙を「活用」してきているのだろう。そして、この「活用」の上で、聡明な若き思想家や、企業家たちが、したり顔で時代と戯れるかのように勇躍している。これはこれでいいのだろう。血からも大地からも自由に戯れるのは清々しい。 <P> さて、この『友情』と言う極めて不細工な文章の塊を読むと、例外なく人は呪詛として「血と大地」に絡め取られており、どうあれそこと「零度」として向き合わなくてはならないと言うことを突きつけられる。今の日本の清々しい若者たちの姿の対極の世界がここにあるような気がする。 <P> おそらく西部翁の眼差しは「正しい」のだろう。思想と行動の拠って立つ場(血と大地)を喪失して、得るものよりも、結局は失うものの方が多いのかもしれない。失うもの、それは人と人が信頼をもって向き合う「情」。血と肉のある人との関係性、「友情」(仁侠)なのかもしれない。 <P> 西部翁が伝えたかったのはこの一点なのだろう。 <P> その通りなのだ。だが、悲しいことにこれさえも「相対化」するのが知性なのではないか。 <P> 私は、友人Uにその知性の姿を見る。
こんなに、文章の下手な人だったろうか、というのが正直な感想。もともと古色蒼然とした保守思想に少々アカデミックな味付けをしただけのオリジナリティのない言論ながら、かつてはその少々シニカルな物言いと広汎な知識でそれなりに読ませる著作をものしていたと記憶するのだが・・<BR>もともと生硬な独特の文章を書く人ではあったが、時代がかった大げさな表現、空疎な修辞が内容の陳腐さをかえって際だたせる。主として描かれている人物も、彼自身もいろいろご苦労されたことはわかるが、あの時代あの地域にあってとびきり特殊な話というわけでもあるまい。アウトローの友人を描くふりして自らの半生をセンチメンタルに回想するナルシズムが鼻につく。所詮、引退した老人の思いで噺。
彼には独特な表現の言い回しがあり、彼の保守論客としての著作にはそれらが多く垣間見られ、読み難さという印象を与えているかもしれないが本書ではその心配はない。所々、難解な文字は見受けられるかもしれないが、この作品を理解するのに障害にはならないだろう。 大変、読みやすい作品です。 著者が高校時代に出会った、その後ヤクザという職業を選択し、その選択ゆえに自ら命を絶たねばならなかった親友の45年に渡る交友の物語である。 本書の内容を説明するには、私には安価な言葉しか生まれてこず、語ろうとすればあまりに重く大きなものを読者に残すであろう本書には失礼になってしまう。 ただただ 読んで下さい。 涙が何回もページを濡らしますし、西部氏が語る言葉にも違った声に聞こえるかもしれません。