<P> 彼女がミステリー分野から出てきたことが 今でも我々をミスリードしている。勿論 ミステリー小説としての高村薫は当代随一である。但し 彼女は 舞台設定として たまたまミステリーを選んだに過ぎない。もっと言うと 犯罪には人間の諸相が実にくっきりと表れ出てくるということを はっきりと書いた純文学者である。ドストエフスキーと同じ事をやっている。「罪と罰」の 主人公と判事のやりとりがいかにミステリーとして秀逸であるかを考えてみればよい。<P> それにしても「硬質の純文学」が売れない時代である。本書の続編が日本経済新聞に連載され 途中で切られてしまったというエピソードも有った。小生からしてみると むしろ好ましいエピソードだ。こんな「硬質な純文学」を満員の通勤列車で読まされる事は 小生含めたサラリーマンにとっては 災難である。それに今の高村はそんな安易な読み方は出来ない作家だ。その後の連載が渡辺淳一であったことからも 掲載した新聞の苦渋ぶりと 我々サラリーマンの「品位」が分るというものである。自虐的ながら。<P> それほど高村薫の本は いまや 難しい。小生にしても 本書は手に余ることは正直に告白する。但し 後世の評価は楽しみだ。時代の先を行っている作品である。<P> そう思っている。
アマゾンでは『晴子情歌』の売上げが芳しくない。本書こそ、高村薫の真骨頂であるのに。<P>高村薫はミステリーに分類される小説を書いてきた。だが、彼女の一連の作品は、ミステリーという分類から類推されるような単なる娯楽小説ではない。現代日本が抱えているいくつもの問題や可笑しな点=ミステリーを、描いてきた。<P>おそらく、彼女は『レディ・ジョーカー』を執筆する過程で、現代日本を描くためには、現代を描写するだけではなく、近代日本を大幅に捉えなおす必要に駆られたのではないか。<BR>そして、その試みの成否は如何に…。
■『マークスの山』『レディ・ジョーカー』などの優れた警察小説を書いてきた著者の新作は、ミステリーではない骨太の大河小説である。■1975年。遠洋マグロ漁船で働いている福澤彰之のもとに母・晴子から大量の手紙が届く。それは晴子の激動の半生をつづったものだった。■物語は東北・北海道を舞台にした晴子の編年体回想書簡と、それを読む息子の感慨や心象風景が交互に描かれる。しかも母の手紙は全て旧字旧かなで書かれているという凝った設定。高村が成そうとしたことは、一組の母と息子の人生を描くことで、この国の歩みを検証することであろう。■この母子を取り巻く家族関係も極めて複雑。それらを描きつつ、庶民の暮らしやその仕事ぶり、戦争、政治社会問題など日本の近現代が俯瞰されるという構造なのだ。驚くべき力技といえよう。■率直にいって、こんな文章力量を持った庶民や、自分の初潮を息子に語ったりする母がいるのかなど、下世話な疑問もわく。しかし作者の志には、謹んで敬意を表したいと私は思う。