朝日新聞の書評に近代的自意識がどうたらこうたら書いてたけど、「ちょっと違うんじゃないの」と思った。なんというか、そんなええもんちゃうでしょ?単なるええかっこしいのアホですよ、この熊太郎は。<BR>でも、そんな熊太郎と弥五郎を「アホ」とばかり笑っていられるかというと、必ずしも他人事とは思えない部分もあるわけで、それがこの物語のすごいところだ。<BR>弥五郎が妹と分かれる場面。私は不覚にも電車のなかで、この場面を読んでしまった。妹に対してうそを言うことが出来ない弥五郎の不器用さに、涙が止まらなかった。<BR>町田康はこの「告白」のなかで、すべての時代のすべての人間が生まれ持っている業というものを描いている。「近代」なんか関係ない。だからこそ、こんなに読む人の心に突き刺さってくる。<BR>そして、この物語でなによりも重要なのは、読者が結末を知っているということだ。あの陰惨な結末に向けて、熊太郎と弥五郎が吸い込まれていく様子を読者は見届けなければならない。<BR>こんなに悲しくて痛い話を私は読んだことがない。
全編が河内弁という関西でもディープな訛りでカモフラージュされている。人が生きていく上で「真・善・美」の実現が可能かとうことを。主人公の熊太郎がソクラテスにだぶって仕方がない。実直に生きている人であろうと不逞の輩であろうと呼び止め、家に上がり込んで「幸福とは?」「正義とは?」と心で訊く。しかし熊太郎には肝心の言葉がない。苦悩する心は言葉で救われることがない。熊太郎と弥五郎はあちこちの玄関をドンドンと叩く。「おどれは生きて死ぬことを自覚しとんのか」「脳みそにばかり支配されて身体はうれしいんかい」と。この絶望的な真実への探求を一気に読んで快哉。
「浄土」につづき、読みました。<P>テンポの良い河内弁、相変わらずの町田節。こちらまでが「くほほ」と読み進めている状態。熊太郎は確かに「あほ」なんだと思うけれど、その心の深いところまでしっかり入り込んでいる作者の目に脱帽です。<BR>自分の人生を何度かやり直そうとして、でもまた深みにはまっていく熊太郎。そんな彼を兄貴分として慕い、命までも共にする弥五郎、金や権力に惑わされ、汚くなっていく人々よりも、彼らのほうがよっぽど純粋に思えました。<BR>「まだ、ほんまのこと言うてへん気がする」と、死の直前につぶやき、自分の本当の、本当の思いを探って話す最後の言葉には、重みがありました。<P>町田氏渾身の超大作といえます。でも、町田ワールド初心者の方は、まずは軽いものから読んで、その後本書を読んだほうが、よりわかりやすいと思われます。