徹底的にブランド化の流れをたどる中でしかその生存を保てない”クラシック”音楽のこれまでの変貌のプロセスを歴史的にたどった作品です。しかし、副題の”クラシックの黄昏”についてのアクチュアルな関心こそが著者をしてこの作品を書かせた一番大きな理由なのでしょう。著者は、あくまでも西洋芸術音楽の歴史性と現在におけるアクチュアリティを厳密にたどります。その中で強調されるのは、適切な聞き方と場の選定です。ということは著者の指摘するとおり、俗な言葉で言えば、文脈の理解に重きを置いた、現代の”ヨーロッパの観光ガイド”ということになるわけです。しかしながらなんと奥の深い対象なのでしょうか。西洋音楽は、政治や社会の変化のみならず”神学上の背景や宗教的な背景”すらその適切な理解には必要とする対象ということが明らかにされるわけです。その文脈の中で、ドイツ音楽の”純粋性”やフランス音楽の”俗っぽさと再生”、シュトラウスの先鋭さと商業性、そして第一次対戦の塹壕戦の象徴性が、見事に説明されることになります。そしてその西洋音楽が、現在たどり着いた場所が、幕が下りる前に余韻を楽しむことなく、拍手が我先にとなされる、新世界アメリカNYのメトロポリタン劇場というわけです。最後に、このような作品の土壌となる講義が日本の大学の一般教養の授業で行われていたのはすばらしいことです。
1960年生まれの19世紀西洋音楽史研究者が、あえて客観的な叙述ではなく徹頭徹尾クラシックの時代をハイライトとする形で、またごく一般的な読者を想定して可能な限り一気に読み通せるコンパクトな通史を目指して、また各々の音楽を聴くにふさわしい場・状況を重視するという意味で音楽の聴き方についてのガイドたることを意図して、2005年に書き上げた、中世グレゴリオ聖歌から20世紀音楽に至るまでの「西洋芸術音楽」(知的エリートに支えられた、主として独伊仏を中心に発達した、楽譜に書かれ設計される音楽)に関する新書本。カール大帝期の「西洋世界の成立」とほぼ同時期に成立した芸術音楽は、徐々に予定調和的な宗教的世界観からの離脱の動きを示し始める。ルネサンス期には印刷技術と共に「作曲家」が登場し、バロック期には絶対王政の王権を飾り立てる祝典の中で音楽の「基本ルール」が確立された。それに続く古典派の時代は、近代市民向けの音楽が始まった時代であり、自由な旋律、公開演奏会、楽譜出版、音楽愛好家の登場、音による対話としてのソナタ形式に特徴づけられる。産業革命期たる19世紀はその延長線上にあり、市民が競って音楽というブランドを求めて自由市場を形成し、音楽批評と音楽学校の成立と共に「名曲」が選定され、それに刺激されて専門分野に特化した作曲家たちが技術開発競争を繰り広げ、音楽が芸術と娯楽に分化し始める。しかし世紀転換期には西洋音楽の限界が自覚され、調性・拍子・楽音の破壊やエキゾチズムへの傾斜が見られ、第一次大戦後には新たな秩序の模索が始まる。第二次大戦後、サブカルチャー化した前衛音楽、クラシック「名演奏」の選定、アングロサクソン系娯楽音楽産業、モダン・ジャズなどが見られるが、著者はこれらを従来の音楽史の語り口で語ることに疑義を呈している。時代背景が音楽形式に与える影響が明快に論じられている。<P>
数十年前の新書のような書名ではあるが、内容は堅苦しくなく、クラシックが好きな人にとって十分に楽しめるものになっている。文章も柔らかくて読みやすい。ブームのさなか、クラシックに関する新書が多数上梓されたが、どういう作曲家についてのどの演奏が良いのか、に終始しており僕などは面食らってしまっていた。「そもそもクラシックとは音楽全般の中でどういう位置を占めるのか?」「バッハとショパン、どちらも好きだけど何かが根本的に違う気がする…。」「夜想曲やマタイ受難曲を凌駕するような新曲が誕生しそうもないのはなぜか?」こういう疑問をすっ飛ばした本の山に苦しんでいたので、明快にそれに答えていく過程が非常に面白かった。特に終章『20世紀に何が起きたのか』は、クラシックが現在置かれている状況を捉える上で大変参考になる。ロマン派音楽(ショパンやワグナー等)の「偉大と呪縛」―一方でポップミュージックという嫡子を産み、他方で前衛音楽という反逆子を産んだ―を言明した本書は、長く読み続けられるだろう。