一般に、苅谷氏は「学力論争」の一論客として著名になりました。<BR>そこで苅谷氏は、データを用い、「新学力」の問題性を、<BR>主として階層差拡大の点から突いていました。<P>本書は、そのような苅谷氏の主張を改めて読むことができると同時に、<BR>「学力問題」以外の「教育問題」に関する氏の主張や<BR>各種メディアに登場する氏の舞台裏、<P>そして、氏の学者としての姿勢を知ることのできる本です。<BR>私は、その苅谷氏の「姿勢」に興味をもちました。<P>目標と手段の設定、実施、評価、目標の修正……。<BR>一般には当たり前のこのような考え方。<BR>苅谷氏は、このような考え方を教育議論の中に持ち込み、<BR>「教育の論じ方を変えたい」という自らの「姿勢」を<BR>本書の中で述べています。<P>本書の帯には次のようにあります。<BR>「苅谷は『壊し屋』だ」。<BR>精神論にもとづいた甘美なスローガン、対立を目的とした対立軸、<BR>ありきたりの論じ方による思考停止状態が闊歩する「教育界」。<BR>そのような「教育界」において、苅谷氏の上記のような議論の手法は、<BR>まさに革命的「思想」なのです。<BR>そして本書は、そのような「思想」の手引書なのです。
私は、日本の教育界の現在進行形の問題点を考える時は、たいてい苅谷剛彦の著作を読むことにしている。文章が読みやすい、ということもあるが、何より苅谷の第一の関心事が、教育と社会階層の格差(=露骨に言えば、金持ちの子供ほど高学歴)の問題だからである。そして、この格差は、ゆとり教育によってさらに拡大しつつある。学力低下は、社会階層が低い仮定の子供ほど深刻である。 <P> この問題を差し置いて、「分数のできない大学生」とか騒ぎ立てても、それは単なるセンセーショナルな問題で終わってしまう。不毛である。<P> さて、本書は書き下ろしも含まれているが、読売新聞や中央公論などのメディアに発表した文章がゴッタ煮的に寄せ集められている。本人の言葉を借りれば「予定外」の本であり、「『学力低下論争』からの訣別の書」(本書 あとがきより)である。 <P> 苅谷氏は、「本当の学力とは何か」と言った定義論や「教育はかくあるべし」といった当為問題には踏み込まず、文部省などの実証的なデータ、測定可能なデータのみを問題とする。<P> もうひとつ、本書における苅谷氏の大きな論点のひとつは、「子供中心主義」教育への批判的なスタンスである。苅谷氏によれば、そもそも「自ら学び、自ら解決する」と言ったゆとり教育の目標は、本来ならばエリート教育の理念であり、誰にでも身につけられるものではない。<P> それに、「自己実現」などという考え方も、ごく一部の華やかな職業に付く人だけが手にできるものであって、「決して階級フリーな考え方ではない」(本書 P252) しかし、それを全国一律に、すべての生徒に身につけさせようとする、また身につけることができる、とするところに、大衆教育社会の悲劇がある。
教育問題の盲点を見事に指摘していて、それも冷静に、研究者としての<BR>立場を貫いている。