「心がいかにして脳から生まれるかという問題については、答えが出ていない」そういう中で、探求を続ける茂木健一郎先生を尊敬します。2001年時の先生の信念、考え方、そういう考えに至った過程が著されています。
心・意識の研究というと、脳神経科学・認知科学といった理系の分野でもだいぶ取り上げられるようになってきています。しかしながら、専門的な論文はともかく、一般向けの本になるとやはり哲学的な色合いが濃くなり、文系色が濃くなり、いまいち判然としないものが多いのも事実です。<BR> この本では数多くの理系論文を引用して筆者なりの考察を加えています。他者が行う行動と自身が同じ行動を取りうるときに発火する「ミラーニューロン」の発見は、相手の行動を認知し、心の理論への足掛けになるのではないか。チンパンジーが鏡を見て、体をいじるようになるが、これはチンパンジーが自己認識を持っているとはいえず、やはり心の発達はヒトレベルまで待たなければならないのではないか。経験や知識バックグラウンドが格段に増えている現代人のほうが、古代の人類よりも心・自己に対する認識がはっきりしているのではないか。<BR> 明確な答えはいまだ出せませんが、こうした考察は少しでも脳が作る心という考え方に興味のある方ならば面白いと思います。<BR> 読者によっては、求めていた答えが書かれていない、こんな考え方は受け入れられないなどといった感想もあるかもしれません。しかしながらまだ答えの出ていない分野、しかもどうアプローチして行ったらよいかも分からない分野です。述べられていることが正解かどうかは今後の研究の課題であって、こういう考え方もあるんだな、という捉え方で読んでみると良いのではないでしょうか。<BR> 私たちがどのように自分の心の存在や他人の心の存在を知るのか、特定の周波数の視覚刺激をなぜ「赤い」と感じるのか。そういったことに少しでも興味がある方ならぜひお勧めします。
本書は「私」とは自己を成立させる「意識世界」であり、それは「クオリア(質感)の塊である」と主張する。クオリアは養老氏の「二情報系人間学」(『人間科学』)でいうなら、脳情報の翻訳・複製の機構に関わる問題だ。本書はクオリアを「感覚的クオリア」と「志向的クオリア」に分けるが、前者を「言語化される以前の原始的な質感」。後者を「言語的社会的文脈の下におかれた質感」とした。薔薇で説明するなら「薔薇をそれと認識する前の、視野の中に広がる色やテクスチャ(きめ)などの質感が感覚的クオリア」「“ああ、これは薔薇だ”と認識する時に心の中に立ち上がる質感が志向的クオリア」となる。このような漠然としたクオリアを「感覚的クオリア」と「志向的クオリア」に概念区分したことは“茂木クオリア論”の大きな成果だ。「私たちが心の中で何か“外”のものを表象する時は、必ずこの二つのクオリアが対になってマッチングがとられている」これは“茂木「クオリア・マッチング(Matching)テ-ゼ」”とも言える。しかしこの茂木「クオリアMテ-ゼ」も養老「唯脳論Sテ-ゼ」(『唯脳論』書評参照)と同様、人間「脳」限定である。したがって自然科学の理論にはならない。『新今西進化論』(星雲社)からすると動物「脳」への普遍理論化が求められる。動物一般の脳情報系(種社会ソフトウェア)は、感覚系(内部・外部)、判断系、運動系に3区分できる。そこで「感覚系」の処理(翻訳)で起こるクオリアを「感覚系クオリア」、判断系で起こるそれを「判断系クオリア」と呼ぶ。そしてマッチング(M)は両者によるものではなく、「感覚系クオリア」と判断系内の「記憶」(Memory)との間で起こると考える。これを新今西「クオリアMMテ-ゼ」(水幡)と呼ぶ。いずれにせよ独自の「クオリア論」を最初に出した本書の功績は大きい。(『脳内現象』書評に続く)