著者は犯罪学の先生ですが、統計手法に対してかなり丁寧な扱いをしていて好感が持てる学者さんです。<P>メディアなどから実際のデータ・記事を取り出し(実名で!)批判しています。コンセプト自体が一般の人にはなじみが薄いかもしれないので、どうしてそんなことをいちいち気をつける必要があるのか?と思ってしまうかもしれない。そういう人にこそ読んでもらいたい、というのが筆者の意図だと思うけど。高校レベルの統計学ではここまでやらないから大学生レベルの本だと思いますが、数学的センスのある学生なら難しくないはず。<P>主に、社会科学のコミュニティー調査を扱っているので、卒論などで質問紙調査を計画しているなら参考になります。一つの研究を追行する際、どの段階でどんなバイアスが存在するか、丁寧に説明してくれています。<P>マスコミで取り上げられる世論調査やアンケートなどをどのように読み解くか、しっかりと教えてくれる良書です。これを読むと、いかに操作された世論調査が多いかということに驚かされる。古い世代の研究者を小気味よく滅多切りにし、正々堂々と議論を挑んでいるところはすごい。<P>統計手法の批判であると共に、現代の日本のアカデミアに対する批判もこめられています。
一般に流布する「社会調査」の信頼度を、自分の頭で評価するためのコツを学ぶには、とても良い本だ。この手の一般書を書く場合でも、専門家は往々にして煩瑣な統計学的処理方法に深入りして、素人を遠ざけてしまう。その点、この本はむしろ数字の魔力に惑わされないで、常識を足場にして数字を批判的に見るための「着眼点」を教えてくれる。多くの人から支持されるのも当然だろう。<BR> でも、不満がないわけではない。ないものねだりと言われるかもしれないが、私なりにとても重要と感じられる問題について触れてみたい。それはこの本の啓蒙主義的なスタンスと関係がある。<BR> 私がこの本を読みながら終始疑問に思っていたのは、「著者の言うゴミ社会調査は、実は現代社会の本質的な構成要素ではないのか」ということだ。何も「ゴミ社会調査」を弁護しようというわけではない。でも、「ゴミ社会調査」を一掃することは、とくにマスコミというシステムにとっては死刑宣告に等しいのではないか。もっと言えば、近代社会にとって、「ゴミ社会調査」は除去不可能な必要悪(?)ではないか、と思うのだ。ゴミを殺せば、最も良質な部分も同時に死ぬのではないか。「それでも学問や公的機関は別だ」という主張を、私は受け容れられない。学問や公的機関の絶対の独立性という神話を、信じる気にはなれない。<BR> もちろん、「ゴミ社会調査」を減らす努力は必要だろう。この本の意義もあるだろう。しかし、著者の理想が完全に達成されることは、原理的にありえないに違いない。その点についての「畏怖」が、この本には欠けている。新書という制約のせいではない。たぶんこの著者には、そういうセンスが欠けている。だから、「ゴミ社会調査」が蔓延する原因として、たかだか調査者の悪意や卑劣さ、企みしか指摘することができないのではないか。現実の理解が、浅いところで留まっている。<BR> この本に啓蒙されて、私たちが「リサーチ・リテラシー」を向上させるのは結構なことだ。また、より多くの人に、その能力を高めてもらいたいとも思う。しかし残念ながら(と言うべきかどうか、否か・・・)、「ゴミ社会調査」がなくなる日は来ないだろう。日本に比べて調査データの共有化・公共化が進んでいると著者が言う米国でも、次から次に「ゴミ社会調査」が生み出されていることは、この本の事例を見ただけで分かる。私としては、ゴミはなくならないという前提に立った、近代情報社会の歩き方(または楽しみ方)についての議論を、むしろ聞きたいと思うが、それはこの著者には期待できそうにない。
新聞やテレビのニュースでは、たくさんの調査結果を目にする。著者によれば、このような社会調査の過半数はゴミだという。正確な数字を出されると信じてしまいたくなる。しかし、調査の対象が偏っていたり、いいかげんな調査から都合の良い結論を導き出すような例がよく見られる。このことは気をつけて見ないと分からないものだが、この本では実際の調査の例(新聞記事など)をもとに解説してあり、読み進めていくうちに、解説を見なくてもどこがおかしいか分かるようになった。そして、読み終わった後は新聞の調査を見てもこれは怪しいと思えるようになる。<P>この本を読むと、でたらめな社会調査に驚くとともに腹が立つ。みんながこういう本を読んで厳しい目を持つようになれば、でたらめは減っていくのかもしれない。表紙を見ると難しそうだけど、実際は読みやすくて面白い本です。