司馬遼太郎の名作『竜馬がゆく』の第五巻。池田屋事件に禁門の変、時代を揺るがす大政変が続く元治の世を荒々しく描く。京都における長州藩の権威は一挙に崩落し、忽ち朝敵としての汚名を着せられる、その一方で次第に体制を強めていく幕府の影に潜む薩摩藩の存在、巡るめく時代の中でかの竜馬自身は西郷と歴史的な出会いを成し遂げる。神戸海軍塾は解散し、幕臣勝海舟の大きな手立てを失った竜馬は次なる同士として、西郷との間である新計画を企てる。海軍塾の流れを汲んだ、日本発の商社の設立。長州征伐がいよいよ本格化する勤王党と佐幕派の戦いの最中、今も尚我が道を進む志士竜馬の道のりを描く。<P> 前作に続いて、余談や小話に重複も目立って、冗長な表現は多くなってしまう上に、幕末史を描く上で思想的にも外交的にも大きな事件であったはずの、薩英戦争や長州砲撃事件などが全くと言って良い程触れられていないので、こうした小話も歴史的な意義がつかみにくい位置づけになってしまっている事は紛れも無い事実だろう。しかし、原点を辿ればあくまで竜馬の物語なのだ。竜馬を取り巻く幕末の風雲を語るには、本編に描かれている政調で十分足るだろうし、況してこれだけ細かな点を指摘した小説を読む上での前提として、幕末の基礎的な流れは読者も知っていて然りだと思う。本巻では、竜馬の動向はやや停滞気味だが、海援隊設立に至る重大な一歩として、そして竜馬のその後を語る上で欠かせない維新三傑西郷との出逢いを描いた局面として、気長に読んで貰いたい。続く歴史は奇跡の如く蠢いていく。
かの有名な池田屋の変が登場します。<P>大河ドラマ新撰組などでもお馴染みのこの場面は竜馬とは直接的なつながりは少ないのですがとても興味深いですね。<P>本書では新撰組が思慮、思想のないただの殺人集団のように描かれています。実際のところはどうなのでしょうか?ドラマではとても魅力的な人物の集まりのように描かれていましたよね。<P>長州の暴発(京の焼き討ち)を一時的に救うことになるのが池田屋の変ですが、新撰組にとっても、幕府にとっても結局はこの快挙が崩壊への序章となってしまうのですから、歴史は皮肉なものですね。<P>この時節にあって竜馬は『まだ早すぎる、みんな無駄に死んでいく』と唇を噛み締めます。そして、竜馬自身も海軍塾を閉鎖に追い込まれ無に帰していきます。尊皇攘夷熱に浮かれる世間に踊らされることなく、自らの信念に従って生きていく様がここでもありありと描かれています。
「するめが大砲になる話をごぞんじか」<BR> 竜馬が薩摩藩邸で、西郷隆盛、小松帯刀に貿易の重要さを説いていいるセリフの冒頭の部分です。<BR> この部分を初めて読んだときは「竜馬は何を言っているんだ?する<BR>めが大砲になるわけがないだろう!」と思いましたが、その後のセリフを読んで、「なるほど!」と納得しました。貿易を巧みに利用すれば、するめが、大砲や軍艦になるということだったのです。<BR> 「百の空論よりも、一のするめが肝要である」<BR> 竜馬の考えと、他の志士の考え方の違いはこのセリフに象徴されていると思います。