かつて、国語審議会答申で現代仮名遣いへの移行が検討された際、<BR>著者が行つた徹底的な現代仮名遣い批判の書。<BR>著者はまず、書き言葉は単に、発話された言葉の模写ではなく、<BR>書き言葉それ自身の作法を独立した作法として認識することから<BR>説き起こす。さらに、ひとつひとつ歴史的仮名遣いの用法を手ほどき<P>しつつ、それと対比させて現代仮名遣いにおける用字法の一環性のなさを<BR>指摘してゆく。一見、単なる文字使用の違いだけのやうに思ふ改変が<BR>実は効率性といふ性急で場当たり的な動機によつて行われた文化的遺産の<BR>破壊行為以外の何者でもないことを明らかにしてゆく。<BR>まるで、高度成長期に経済がその効率性追求の果てに、環境を破壊して<P>いつたのと歩調をあわせるかのやうに、文化の領域でも効率性追求の大義<BR>名分のもと、デタラメな施策が行われていたわけである。<BR>読者は読み終える頃には、歴史的仮名遣いを実際に実践してみたくなる筈。
福田恒存。小林秀雄と並ぶ日本最高の批評家であり、その喧嘩好きにおいては後者をしのぎ、あらゆるインチキ言辞に噛み付いたため、多大な恨みを買ひ、今もつて正当な評価を与へられない稀有の論者。彼にこきおろされた名を挙げれば、羽仁五郎、金田一京助、土岐善麿、マツザカタダノリ、家永三郎、清水幾太郎、渡部昇一、森嶋通夫、丸谷才一、江藤淳、石川達三、バートランド・ラッセル...貼られたレッテルは保守反動だが、筋が通らなければ右も左も関係なく、明快に・理路整然と・技巧たつぷりに・「声に出して読み」たくなるやうな名文でやつつけました。<P>左翼的思想が幅を利かせた戦後の論壇にあつて敢然と平和論と闘ひ、その主張の正しさはいまや完全に証明されました。<P>シェイクスピア翻訳の第䡊??人者であり、そのテキストは今もスタンダードとして通用します。ついでにいへば小田島雄志訳も認めてゐませんでした。<P>そして最大の仕事が、戦後の国語改革批判でした。平和論同様、長いものに巻かれず、孤軍奮闘し...やんぬるかな、現状をつひに変へることができず世を去つたのです。<P>「私の国語教室」は旧かな旧字体の合理性を主張したもので、「ひざまづく」を「ひざまずく」としなければならないをかしさ、「苦しうない」を「苦しゅうない」としなければならない見苦しさ、一部の字体を変更したために同じつくりや偏を持つ漢字相互の関係を破壊した愚かさ、は行四段活用の美しさなど、至極もつともな例を挙げながら、表記の基準を絶えず変化する音韻に置くのは間違ひであり、語を基準とすべきであると説いてゐます。<P>「私が書くほかのものを読まなくてもいいから、これだけは読んでいただきたい」との巻頭言から考へて、死に際し、何よりも心残りであり、無念であつたのが、日本語の問題だつたでありませう。生きてゐれば、今の我々日本人の知的レベルの低下は、国語改悪の当然の報いだといふことでせう。この書の価値は、国語表記が改まるまで決して失せることはありません。心ある若い人にぜひ読んでほしい「古典」です。<P>このレビューを旧字体でつづれないのが残念です。
福田恒存氏といえば「国語問題」に一生を捧げた人として有名である。<BR> その彼の精神が余すところなく込められた一冊である。それがゆえに国語教師はこの本を読み自戒し、作家は己が信念を今一度見直すことになるであろう。<P> 三島由紀夫氏以後、福田氏の精神を受け継ぐものは現れるのか、その結果はすべてこの書を真の意味で理解できるかにかかっていると言える。