この作品は、三島由紀夫の単なる評伝ではなく、「日本の近代と官僚制」がテーマになっている。なぜなら三島の祖父・平岡定太郎は樺太庁長官を務め、父・梓は元農林省水産局長、三島本人もその血を受け継ぎ大蔵省に9ヶ月だけ籍を置いた、三代にわたる高級官僚の家系を通して近代を解き明かそうとしているからである。著作集のタイトルが「日本の近代」となっているが、それにふさわしく、明治からの約100年間を、平岡家三代を軸にしてミクロの近代日本を、原敬や岸信介を登場させてマクロの近代日本を、それぞれ鮮明に映し出している。<P> 三島は「官僚たちが設計してきて、これからも設計しつづけるだろう終わりなき日常性」つまり近代日本、特に戦後日本を憎み、それに「一気に零を掛けることの出来る切!!」としての天皇を『金閣寺』から『絹と明察』に間に発見したが、その青年時代には官僚だった祖父のコネで紙を調達して処女作を強引に出版し、また昭和二十八年、『潮騒』を書くときにはやはり元農林省水産局長たる父・梓の力に頼って物語の舞台となる「歌島」を探したという矛盾を抱えていたことが浮かび上がってくる。<P> 天才とうたわれた三島であるが、著者は、昭和19年に19歳の三島が『花ざかりの森』の処女出版に異常な執着を燃やしたことや、凡庸な日常性という悪を打ち破ろうとして書いた『鏡子の家』が理解されなかったことの苦悩など三島の隠そうとした事実に細心緻密な調査と努力によって迫り、新たな三島増を構築している。<P> 単なる作家論でもなく、学術書でもなく、細部はすべて事実から成り立っ!!いるのに、これまでのあまたの三島論と顔色ならしめる傑作である。
『ペルソナ』ほど画期的な三島由紀夫伝はない。評伝であるだけでなく作品論としても一級で、『仮面の告白』『金閣寺』『鏡子の家』の解釈には蒙を啓かれた。『ペルソナ』以降の三島の作品論は猪瀬直樹の解釈に規定されざるを得ないし、実際そうなっているように思う。
三島由紀夫死後多く人が彼を題材にしたものを出版してきた。これもその一環だ。正直なところ、あまりパッとしない。ノンフィクション作家の視点ということで、祖父の疑獄事件に焦点を当てる部分は読めた。しかし、やはりノンフィクション作家が文芸を語ると陥る悪いパターンにはまっている。徹して三島の作品に対して評価をしなければいいものの、やっぱりそれをしてしまったかという気がする。作品と三島を事実と見てノンフィクションを描けばいいものの、三島作品にところどころ「ここがこの作品の重要なとこ」だとかいろいろ蘊蓄をたれられても困る。その意味で私はこの作品をあまり評価出来ない。猪瀬氏(作者)は後に川端や太宰を題材にした作品を発表していくが、その第一作として見る方がいいだろう!。少なくとも独立した「三島評伝」として読むよりは、連作の一つとして読むべきだ。猪瀬氏のファン、三島をかじりたい、三島熱烈ファンで三島関連は全部読みたい、の三種の読むだろう人がいるが、どの人にとっても不満足で、唯一三島熱烈ファンは「読んだ」という制覇に満足するだろう。私は上の三つのどれにも当てはまらず、困った。