新撰組といえば司馬遼太郎の『燃えよ剣』が有名ですが、これはある意味それと対極に立つ新撰組観です。ひたすら「武士」というものにこだわって生きていく土方歳三の『燃えよ剣』。それに対して、「守銭奴」とさげすまれながらも、飢え死にしそうな家族のためにひたすら人を斬り続けた吉村貫一郎の『壬生義士伝』。「士道」からみた新撰組観が多い著作にあって、「家族」という「義」に生き抜く主人公から新撰組を描いてあるのは、かなり新鮮です。「新撰組で一番強かった男」吉村貫一郎。彼の腕は、あの沖田総司や永倉新八と互角だったという。また彼を取り巻く人物の描写も面白い。家族のために生き抜くという吉村の生き方と対極の生き方をし、吉村を嫌っている新撰組一番の使い手、斉藤一(映画 壬生義士伝では佐藤浩一が演じているのですが、これがまたかっこいい)。とにかくこの人は全てがミステリアスですね。数少ない新撰組の生き残りです。あの西南戦争では、「今こそ鳥羽伏見・戊辰戦争の弔いだ。」と警視庁の一員として出征し抜群の戦功をあげたという。読み出すと時間を忘れます。
読み終えて暫し陶然とする物語である。<BR>かねてより、新撰組に強く惹かれるものを感じていて、新撰組に関する書物は手当たり次第に読み漁っていたが、これまでにない新鮮な感動を味わった。<P>吉村貫一郎は、南部藩脱藩者であり、金を稼ぐ為に新撰組に加わった。彼の剣の腕前は、沖田総司や永倉新八、斎藤一にも匹敵する程であった。新撰組は、堕落しきった武家社会の最後の”士道”を貫く集団であり、吉村がそこに加わったことは運命のような気がする。それ程の腕前がありながら、吉村には回りのものが理解できないものがあった。守銭奴といわれるほどに金を求めることである。何故それほどまでして金に執着するのか。彼は故郷に残してきた妻子にその金を送りつづけていたのだ。家族のために藩を捨て、金のため人殺しを稼業とする男。義とは藩のためにあるものなのか?彼は、自らの家族を守ることを義と考える。そして生きる。生きて家族を養う。ぎりぎりの世界で生きる新撰組の隊士達は蔑みながらも羨望を持つ。そんな吉村が、鳥羽伏見の戦いで戦況が悪く新撰組でさえ逃げ出す中で、一人徳川の殿軍を務めると官軍に立ち向かってゆく。彼こそ”義”を深く信じ義に生きる”武士”だったのだ。<BR>この物語を著者は、吉村自身の独白と元新撰組隊士や吉村の知人の”証言”を織り交ぜながら、重層的に視点あて吉村貫一郎の実像を描いている。<P>南部藩のニ駄二人扶持に生まれ、封建社会の中で学問を積んでも剣を磨いても妻子にさえ満足な暮らしがさせられない運命に挑み、運命を変えようとして立ち向かっていった”武士”の姿として映った。
男としていかに生きるべきか。ここに純粋なひとつの形がある。<P>殺されないために殺す。非情でなければ生き残ることも難しい幕末の新選組。そのなかで永倉新八、斉藤一、沖田総司などからも一目置かれ、”局を脱する者は切腹”土方歳三をして「新選組を抜けさせてやっても良い」と言わせた吉村貫一郎。<P>時代に自らの魂魄まで捧げ尽くした、吉田松陰、高杉晋作、坂本龍馬、土方歳三、西郷隆盛などの時代の主役たちが違い、あくまでも愛する妻子のために命をかけた吉村貫一郎の生き様には、心を洗われる思いがした。この本を通じて武士道精神の深みをまた新たに感じることができた。<P>最高の友人に恵まれ、南部小町と言われた美しい妻を娶り、文武両道を極めたが故、下級武士としての平凡な生涯を送ることが出来なかった男。<BR>しかし・・・男子かくあるべし。