主人公「桐谷修二」は演じている自分に酔っているが、ありきたりの日常に退屈している。人間の漠然とした疎外感を埋めるために適度な距離を保って学友たちと接する。自分のステータスを維持するために。転入生の野ブタをプロデュースするためプロデューサーを演じるが、演じていた者が演じさせるということは時に破綻を生じる結果を生む。演じていたことを間接的に知らせるに等しいからだ。学年の人気者という立場の修二は所詮作られたもの。それに時間を割いていた彼が野ブタをプロデュースするという時点で私には結末がはっきり見えていた。保っていた距離、それが最終的に彼の首を絞めることになる。やがて全ての立場を失った修二は野ブタと同じように一からやり直すだろう。学校が如何に狭いものであるかに彼は気づけるだろうか? もはや学校というものが社会的に機能し切れなくなりつつある。今までの教育は上から教えるというものだった。立て直すのならこの点をひっくり返さねばならない。野球が観客あってのものであるように、生徒あっての学校だからだ。教えるということは本来優しいことではない。「こんなもんも」と見縊られても、教える側は環境を創り変えてゆくべきだ。研鑽を積むことで見えてくることもある。ツールが広がった結果、彼らは今では外の世界と接する機会は増えている。学校が全てという世界は少し古い。外を出れば彼らは違った歩みをするはずだから。にしても、身内を褒めまくる文学の場はどこか日本の学界に似ている。次はあなたで、といった具合に。保守的な立場に身を浸し、安住しているように見える。文学が現実から乖離して久しい。今では後追いがほとんどだ。何か主張する前に、その枠組みを変えねば始まらない。安住した者からの言葉は届かない。この眼鏡、二つ星(2.5)と見た。笑いは甘いが、今の形でしか書けないものだろう。
とりあえず、純文学として読もうとすると、失敗する。素直にエンタメとして読むべき。<BR> 前半はいいのだが、後半になればばるほど駄目。それは、テンションが下がるとかそんな理由ではなく、嘘だらけのスカスカの世界にリアルを中途半端に持ち込もうとしたためだ。<BR> この作品、文字通り、野ブタを人間として描いていない。どう考えてもこんな人間はいない。主人公の心内語などは絶妙なのに、野ブタの喋り方、言動、さらに主人公の話に乗るあたりはリアリティの欠片もなく、絵空事。痛みの欠片もなく、人形そのもの。<BR> だけれど、これはそういう本であり、良く言えば「五体不満足」のようなもの。ダークな面をまったく書かないで成功させている。ずっと前半のテンポで笑わせていけばいいのだ。<BR> それなのに、後半主人公の仮面が脱げた辺りで、中途半端なリアリティが入り込む。それが最悪。主人公やまわりの言動が、はい?と思える。リアルっぽくやろうとして大自爆。<BR> 新人にそこまで求めるのは酷か。ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂを読もう。
文藝賞とはその性質上、既成の文学にない「新しさ」が売りである。<BR>従って、情景描写からはじまる、まっとうな「文学」を読みたくば、<BR>「群像」なり「新潮」を読めばよい。<P>本書は、<BR>「セカチュウで泣かずにこれを読んで笑え」、という<BR>選考委員の講評に従って、<BR>小説を読み通せないような読者をも囲みうるだけの「小説」である。<P>テンポ感もスピードもいい。<BR>「女の弁当は、見た目重視・栄養無視」とか<BR>「寒い、寒いよ、パトラッシュ」とか<BR>ばかくさいと思いつつも、笑いながら読んだ。笑わせられた。<BR>後半は内省的に堕すのがつまらぬとか、<BR>女子高生像が画一的に描かれているとか、キズはあると言うが、<BR>それもよし。