ドーキンスはケンブリッジ大学の動物行動学者。原著が出版されたのは1976年。著者はあらゆる生物の行動を一貫して突然変異と自然淘汰という2つの原理のみで説明しようと試みている。利己的遺伝子という概念はそのためのツールであるが、言葉が独り歩きしている感が強く思想界から一般の間違った俗流の生物学者にまでインパクトを与えている。間違ってはいけないのはこのこの言葉は概念であり実体はないということである。著者自身、「自然淘汰の単位として役立つだけの長い世代にわたって続きうる染色体物質の一部」という曖昧な定義を採用している。古典として是非読んでおくことをお薦めする。
1976年版の初版は、ばっさり進化論を個体や種ではなく遺伝子に着目して書き評判を得た。この76年版のエッセンスは前書きに凝縮されている。しかし、この前書きにもかかわらずこの1989年版の前書き、補注にもあるように、かなり拡大解釈されたことが判る。(その原因が著者に無いとは思われない)<P> 確かに現時点で読むと、批判的に読める部分も多く、正直イライラした気持ちになったが、補注から読むとそのような疑問にかなり答えてあり、楽しく読めた。
事実に対する解釈はひとつとは限らない。一方、無限にさまざまな解釈があるわけでなく、直感的な説得力をもつ”解釈の収束点”がいくつか存在するのだろう。自分の視野がある収束点とは違う収束点の存在を教えてくれた。この本を起点に、新しい視点を求めて、ドーキンスの他の著作、グールド、カウフマンと読書の幅も広げられた。<P> 人間が生み出した道具だからもつ宿命なのなのだろうか。わたしたちが使う言葉には、主観的なニュアンスが内在している。たとえば、使われる文脈で多少の違いはあるだろうが、「AがBをする」という表現の場合、Aというものを擬人化し、その何らかの意志の存在を感じさせてしまう。<P> 「利己的」という刺激的な言葉が使われれば、読者はそこに意志や道徳を感じざるをえな!。本書は、言葉の持つこのような主観的な特徴についての丁寧な説明からスタートする。一見、本論とは直接関係のないようなこの話題から、すでに「事実を見る新しい見方」についての気付きが始まる。<P> 前書きで「科学者ができるもっとも重要な貢献は、新しい学説を提唱したり、新しい事実を発掘したりすることよりも、古い学説や事実を見る新しい見方を発見することにある場合がおおい」と表明されているとおり、本書は既に知られているさまざまな事実を注意深く再度検討し、その解釈の可能性を探っている。