1980年代、渋谷、パルコについて語るなら、僕に取材してからにしたほうがもっと面白いものが書けたのに(笑い)。前半のパルコ論は、インサイダーだった人間から見ると教科書的でつまらないし、大いに反論もしたいところだ。10年遅れた本という印象すらしてしまう。東浩紀と同じ1971年生まれらしい、時代の主役になれなかった世代らしい本とも言えます。しかし後半の「脱舞台化」する都市という指摘は面白い。たしかに広告都市としての東京は弱体化している。だがいま空間の広告化を問題にするなら、パルコやディズニーランドじゃなくて、ジャスコ、イオンをこそ論ずるべきでしょう。今後に期待。
北田の指摘するように、映画トゥルーマンショーで、主人公がシーヘブンの外に出たあとどうなるかは、面白いテーマだ。ちなみに私はあの映画の舞台になったフロリダの住宅地、シーサイドに2003年に行った。映画の印象が強かったので、ひでえところかと思ったが、デザイン的にはよく考えられた町だった。そもそもシーサイドはアメリカの典型的な郊外住宅地への批判から生まれたのだが、そこがトゥルーマンショーの舞台になるというのは二重の皮肉である。
「広告都市」とは何ぞや? 広告都市としての東京はいつ誕生していつ死んだのか? 読む前には全く内容に関するイメージが湧かず、しかしながら(評者と同世代である)著者の最近の論壇等での活躍を見るに、ぜひ読んでみたい一冊と考え手に取った。<P>社会学の書物(そしてその一種独特とも言える著述の展開スタイル)に慣れている方は、すんなりと読みこなせるかもしれないが、不慣れな評者は、読み進みながらそのスタイルに次第に馴染み、ある種の共感および共通経験を感じつつ、読了することが出来た。<P>この本の前半は<P> ・現代社会に生きる「個人」がいかに、「都市」を舞台とした「広告」に取り込まれてきたか<BR>その過程ならびに構造を、映画「トゥルーマン・ショー」や、パルコを中心とした渋谷公園通りの発展過程に題材をとりつつ、解析・描写していったものと受け取ることができる。<BR>そして後半では<BR> ・今、「広告」は必ずしも「都市」を舞台とする必要がなくなり、<P> ・また「都市」も「広告」に舞台として求められるようなオーラを喪失しつつある<BR> ・そして「個人」もまた、「都市空間」を媒介としたつながりでは不足を感じ、相互交換すべき「情報」そのものの<BR> 媒介によるつながりへとシフトしてきている<BR> (都市に存在するあらゆるものも、その「情報」のネタの1つとして取り込まれつつある)<P>これらのことが広告都市としての東京を死に至らしめている、と解析・叙述していると受け取ることができる。<P>この本の読み手の方が、日常生活の中において、都市・広告・コミュニケーションといったものに対して何らかの違和感を感じている方であれば、この本が示唆するものは少なくないと感じる。<P>ただ(著者もあとがきで若干触れているが)<P>著者と異なる世代(ならびに、東京に対して著者と異なる距離感を保ってきた人々)が、この本で述べられたのと同様の状況をどう受け止めているのか? その叙述が今後複数出てきて、本書の叙述に対する対立軸として確立し始めると、本書に対するよき刺激となろう。<P>現状では、著者との共通環境(世代、東京への距離感 etc.)が、内容理解および評価にあたってある程度必須になっているような気がしてならない、この点が残念である。